2025 年 75 巻 2 号 p. 167-175
遺伝資源に関するデジタル配列情報(DSI)とは、遺伝資源のアクセスと利益配分(ABS)の文脈で使われる用語である。少なくともDNA配列情報を含むことが各国の共通認識となっているが定義はされていない。生物多様性条約では、2022年の第15回締約国会議(COP15)で、DSIの使用を利益配分の対象とする多数国間メカニズムの構築が決定された。それに続き、2024年のCOP16では、利益配分を行うための具体的なメカニズムが決められた。この決定によって、DSIの利益配分は、名古屋議定書のような二者間(提供者–利用者)ではなく、多数国間メカニズムという国際的に統一された基準の下で、公的データベースのDSIを対象として行うこととなった。学術研究機関は金銭的利益の供試者としての義務は免除されたものの、公的データベースの管理者はユーザーへの情報提供を行う必要があり、データベースへのDSIの登録者には配列の公開が禁止されていないという確認を求める内容となっている。本稿では、このようなCOP16でのDSIの利益配分に関する決定について、おもに学術機関の研究者を対象に解説を行う。
遺伝資源に関するデジタル配列情報(DSI: digital sequence information)とは、遺伝資源のアクセスと利益配分(ABS: access and benefit-sharing)を、DNA配列などの「情報」に拡張する議論で使われる用語であり、生物多様性条約(CBD: Convention on Biological Diversity)で使われ始めた。先住民族等が保有する「遺伝資源に関連する伝統的知識」(いわゆるTKGR: traditional knowledge associated with genetic resources)を除けば、CBDでは、利益配分の対象を、遺伝資源の利用(CBD第15条7項)としている。遺伝資源とは「現実のまたは潜在的な価値を有する遺伝素材」(CBD第2条)であるから、ABSの対象が有体物である素材(material)だけでなく、情報(非有体物)を含むことは、ABSの対象が大きく広がることになる。ABSをDSIへと拡張するこのような動きは、発展途上国を中心に第13回締約国会議(COP13)(2016年)以降主張されてきた(SCBD 2020a)。その主張の背景には、合成生物学等の進歩によって、「遺伝資源の利用」がバイパスされ、名古屋議定書で期待されている利益配分が行われていないのではないかという懸念がある。以後、DSIの利益配分はCBDにおいて主要な議題となり、様々な議論が行われてきた(小林 2018)。
膨大な議論の結果として、2022年のCOP15では、2030年までの10年目標である昆明・モントリオール生物多様性枠組(KMGBF: Kunming-Montreal Global Biodiversity Framework, SCBD 2022a)とともにDSIを利益配分とすることが決定された(CBD/COP/DEC/15/9, SCBD 2022b)。COP15はコロナウィルスのパンデミックによって2年遅れて開催されることとなり、2020年までの生物多様性に関する世界目標である愛知目標の期間はすでに終わっていた。先進国側は、新たな世界目標の設定を最優先事項と考えていた一方で、一部の途上国側はDSIの利益配分を含む新たな資源動員が必要不可欠と考えていた(アフリカングループ 2022)。先進国側は、定義のできないDSIの利益配分には否定的であったが、結果としてはKMGBF、DSI、その他の関連する決定をあわせたパッケージとして採択された(匿名,Earth Negotiations Bulletin「Summary of the UN Biodiversity Conference: 7–19 December 2022」https://enb.iisd.org/sites/default/files/2022-12/enb09796e.pdf, 2025年8月12日確認)。
このCOP15決定は、あくまでも「DSIを利益配分の対象とすること」「DSIの利益配分に係る多数国間メカニズムの設置」であり、利益配分の具体的な方法についてはCOP16で決定することとなった。COP15以後、COP16までの端境期も作業部会の下で、具体的な方法について検討が進められたがまとまらず、COP16の期間中(2024年10–11月)にも11回の非公式会合(Contact Group)が開催されるなどして、意見調整が試みられた(宝来ほか 2025)。その結果、DSIの利益配分を行うためのメカニズムに関する決定文書(CBD/COP/DEC/16/2, SCBD 2024a)が採択されるに至った。
本稿では、主に非営利機関の研究者を対象に、このCOP決定(CBD/COP/DEC/16/2)について紹介する。国連公用語6カ国で作成される決定文のうち、筆者らは英語版を参照しており、日本語訳に際してはわかりやすさを考慮して一部省略等行っている。なお、研究者向けの解説としては、Muñoz-García et al.(2025)も詳しい。
DSIに関するCOP決定の中身を見る前に、CBDのCOP決定がどのような法的性格を持つのか確認する。
国際条約の締約国会議での決定とは、会議文書の採択のことである。CBDでは、コンセンサス方式に依る合意形成(CBD第23条3項)を必要としており、採択文書に対する修正意見が出なくなるまで議論を行うことによってこれを実現している。このようにして採択された決定文書(いわゆるDecision)は、CBDにおいては締約国に法的義務を生じさせるわけではない(SCBD 2023)。CBDのCOP決定は、引用される条約条文の範囲内でその効力が生じるものと考えられている(磯崎 2016)。今回の決定は、CBDですでに定められていた内容が制度化されたというわけではなく、CBDには無い新たな仕組み(DSIの利益配分)の構築であるという点からも締約国に対して法的義務を生まないと考えられる。条約や議定書では、各国が国会等で批准を判断し、締約国として法的義務を追うことになるから、COP決定の重大性は条約等とは大きく異なる。このような文書の性質を受けて、本決定では、多くの助動詞に弱い表現である“should”が使われており、義務を表す“shall”は使われていない。とは言え、締約国がCOP決定を軽視することになれば、条約の意義が損なわれることになるから、法的義務が無いとはいえ締約国はCOP決定に従った行動を取ることが期待されている。
本DSI決定は、本文に加えて、ひとつのAnnex(別紙)と6つのEnclosureから構成される。主要部分はAnnexであるが、これは国際会議文書では珍しいことではなく、たとえば「昆明・モントリオール生物多様性枠組」の主要部分もAnnexとなっている。また、Enclosureとは、Annexから参照する別紙を指す用語として使われているだけであり、特別な意味があるわけではない。
多数国間メカニズムによる利益配分COP15での決定(CBD/COP/DEC/15/9)の通り、COP16での本決定では「遺伝資源に関するデジタル配列情報の公正で衡平な利益の配分に多数国間メカニズムを採択する」(operative paragraph 1=主文のパラグラフのことであり、以下OPと呼ぶ)とし、その対象や利益配分が期待される企業や業界、各国の国内法との関係などがAnnexで定められた。Annexでは「多数国間メカニズム下での遺伝資源に関するDSIのユーザーすべてが、利益を公正かつ衡平に配分する」(パラグラフ2、以下Annexの段落を単にパラグラフと呼ぶ)と全体像が示されている。ここでの「多数国間メカニズム」とは、金銭的利益配分(パラグラフ3, 13–22)では、金銭を一箇所にプールしてから配分することであり、非金銭的利益配分では、既存の活動を基礎とし、CBDクリアリングハウスで人材育成等の受給のマッチング及び報告を行うこととなっている(パラグラフ7, 8)。
本決定で、「多数国間」(multilateral)を掲げた重要な点は、生物多様性条約や名古屋議定書が定める、提供国の法令に従って遺伝資源を取得するという二者間(bilateral)とは異なる仕組みで、DSIの利益配分を行うということにある。この決定文書によって、DSIの利益配分は、国際的に統一的な仕組みの下で運用されることを目的としている。DNA配列情報の利用では、単一のDNA配列や、単一国由来のDNA配列だけから「利益」が生じるということはほとんど考えられず、膨大な配列情報を比較することによってのみ有益な情報が得られる。そのため、名古屋議定書での遺伝資源管理のように各国が独自の法令で自国の遺伝資源由来のDNA配列を規制することになれば、利用者がDNAの配列比較をすることは現実的には不可能になる。学術研究機関など、アカデミアのステークホルダーグループはそのことを何度も主張していたものの(例えば、DSI Scientific Network 2021)、一部の開発途上国は一貫して自国のABS法令をDSIの利益配分に適用することを主張するなど、統一的な(多数国間)メカニズムと各国による独自規制のせめぎあいは常に議論の中心であった。結果として、「国内法を損なうことなく」(without prejudice to national legislation)(パラグラフ1)などの文言挿入によって、各国が独自のDSI利益配分制度を設けることを認めるものとなったが、本決定自体は「多数国間」(統一的な方法)による利益配分に関する文書となっている。
DSIの対象と適用範囲DSIの定義又は適用範囲を定めようとする試みは、DSIに関する技術的専門家会合などを通じて何度も行われてきた(SCBD 2020b)。これらの議論では、DSIの適用範囲に、DNAとRNAの配列情報が含まれることについては異論がなかったものの、タンパク質(アミノ酸配列)を含むのか、一般的には「配列」とは言わないような生物に関わる多様なデータまでも含むのかについて合意を得ることはできなかった(Kobayashi et al. 2020)。この状況はCOP16でも変わらず、本決定でもDSIの定義は行われていない。しかし、多数国間メカニズムの運用に係るDSIの適用範囲に関して、「公的に利用される」(publicly available)(パラグラフ1(a))という点が記載された。パラグラフ10で公的データベースに要請する事項が含まれていることを踏まえると、ここでいう公的に利用できるDSIとは誰でも利用可能な状況にあるデータベースにあるものを対象にしていると解釈される。さらに、そのDSIは「国内法を遵守していること」、「DSIが由来する遺伝資源を取得した際の相互に合意する条件(mutually agreed terms, いわゆる名古屋議定書のMAT)でDSIが対象とされていないこと」、「他の国際条約でDSIの利益配分が定められていないこと」が挙げられている(パラグラフ1)。つまり、法令や契約による規制のほか、他の国際条約等によって利益配分が定められていないDSIが多数国間メカニズムの対象となる。これらの条件のうち、諸国のABS国内法令と契約による規制は現在のINSDC等の公的データベースでは分からず、すでに登録されているDSIについて該非を判断することは困難である。「他の国際条約でのDSIに関する利益配分」に関しては、現在ではBBNJ協定(国家管轄権外区域の生物多様性の保全と持続可能な利用に関する国連海洋法条約の下での協定)が想起されるが、本協定は発効していない(2025年6月24日現在)。このことを考えれば、INSDC等の公的データベースにあるヒト以外の生物を対象としたDNA配列情報のうち、現状ではほとんどのものが本文書による利益配分の対象と考えられる。本決定中では、DSIは「遺伝資源に関するデジタル配列情報」(digital sequence information on genetic resources)と記載されており、生物多様性条約の枠組みには、ヒトの遺伝資源を含まないことが過去の締約国会議で確認されている(SCBD 1995)。また、環境DNA由来の配列については、そもそもDNA自体が遺伝資源であると考えられるから、該当するものと思われる。人為的にデザインされたDNA配列が該当するかは不明である。条約上、遺伝資源とは「遺伝素材(遺伝の機能的な単位を有する植物、動物、微生物その他に由来する素材)」(CBD第2条)であることを考えれば、人為的な配列は対象外と考えられるが、議論はされていない。
金銭的利益の拠出者ABSでは、常に金銭的利益の配分が各国の関心の中心であるため、DSIの利益配分に関する本決定でも、金銭的利益配分が非金銭的利益配分に先んじて議論されてきた。本文書では、「すべてのDSIの利用者が利益を配分する」(パラグラフ2)とされているが、金銭的利益配分の貢献者は「商業活動によって間接的・非間接的にDSIの利用から利益を得ている業界のDSI利用者」(パラグラフ3)であり、「総資産2千万米ドル/売上高5千万米ドル/利益5百万米ドル」のうち2つの基準を満たす利用者に限定されている。これらの基準を満たす場合に、カリ基金と名付けられた(OP2)世界基金に対し、純利益の1%または売上の0.1%を拠出することが要請されている。カリとはCOP16の開催地となったコロンビアの都市(Cali)に由来している。このような財務上の基準に加え、Enclosure Iには拠出者の例示として、製薬や補助食品など7つの業界がリストされている。各企業は、これら複数の基準を勘案し、自社の該非を判断することになるだろう。なお、カリ基金は国連のマルチパートナートラスト基金(https://mptf.undp.org, 2025年3月25日確認)によって管理される(パラグラフ23)。金銭的利益配分は、商業活動を実施する企業等を対象にしており、「公的データベースと公的学術研究機関」(public databases and public research and academic institutions)は世界基金への拠出を期待されていないと明記された(パラグラフ9)。そのため、大学等が特許の利用許諾などを通じて収入があった場合でも、拠出する必要はないと考えられる。一方で、大学発のベンチャー企業など、公的研究機関と異なる法人として商業活動を行う場合には、その売上や純利益の規模及びセクターによっては、拠出対象者となり得る。上記の基準を満たす企業に対して、政府がどのような強度で拠出を促すかは、締約国に判断が委ねられており、各締約国によって検討されている、日本政府からは本決定に基づく文書等は現時点(2025年6月11日)では出されていない。
この他、金銭的拠出者には、「領収書」(パラグラフ14)及び「証明書」(パラグラフ15)が発行される仕組みがある。これは、交渉過程において、拠出に対するインセンティブとして提案されたもののであるが、日本経済団体連合会自然保護協議会(2025)はさらなるインセンティブの導入を検討すべきとしている。
学術研究機関は金銭的利益の拠出を行う必要はないが、企業が利益の一部を拠出することによる、研究コストの増加は考えられる。Enclosure Iには、「製薬」などと並び、「バイオテクノロジー」「試薬および消耗品を含む、遺伝資源に関するデジタル配列情報の決定と使用に関連する研究用機器」「人工知能を含む遺伝資源に関するデジタル配列情報に関連する情報、科学、技術サービス」も挙げられている。後者の2つに関しては、DSIの利用というよりも、DNA実験や分析などDSIを生み出すための製品やサービスを表しており、試薬・機器・有償ソフトウエアの購入、分析の外注などを指すと思われるため、学術研究にも、価格面での影響が生じる可能性がある。
金銭的利益の配分目的、配分する方法、手続きDSIの金銭的利益配分では、新たな基金(カリ基金)を作ったため、集めた資金の配分目的や配分する方法、配分を決定する手続き(委員会の設置を含む)についても規定された。カリ基金は、CBDの目的である生物多様性の保全や持続可能な利用などを支援すること(パラグラフ18)、かつ、少なくとも半分の金額は先住民族と地域コミュニティ(IPLC: indigenous peoples and local communities)に配分される(パラグラフ21)ことになっている。
基金に集まった資金の配分は、各国(パラグラフ20)及びIPLCが指定する組織(パラグラフ21)への2つの経路がある。どの国へいくらずつ配分するかについては、各国の最大の関心事であり、COP16では合意に至らず、今後の方針が示されるにとどまった(パラグラフ19)。配分にあたり考慮する項目に関するEnclosure IIでは、(a)国レベルの生物多様性または関連基準、(b)DSIが由来する遺伝資源の地理的起源、(c)生物多様性の保全と持続可能な利用のための能力構築の必要性の3点が挙げられている。(b)はDSIの由来する遺伝資源の原産国に関するものであるが、カリ基金に拠出される資金に原産国のタグを付けるわけではないから、この記載は、多数の遺伝資源を提供した原産国に多く配分する可能性を残す趣旨と思われる。しかし、Scholz et al.(2021)によれば、DSIの由来となった遺伝資源の原産国の多くはアメリカ・中国・日本等の先進国であり、各国への資金配分にあたって原産国性を重視すれば、先進国へ配分することになりかねない。なお、本基金では配分先として先進国が除外されていないことは他の類似基金には見られない特徴である。
非金銭的利益配分非金銭的利益は、すべてのユーザーが適切に行うものであるとし、金銭的利益配分の補完的(complementary)なものとして位置づけられている(パラグラフ6)。目的としては、KMGBFの実施支援や人材育成などが挙げられている(パラグラフ7)が、名古屋議定書やBBNJ協定とは異なり、何が非金銭的利益であるのかは例示されていない。非金銭的利益配分も「多数国間メカニズム」の対象であるが、金銭のようにプールしたりはできない。本決定では、既存の活動(ongoing actives)を基礎としつつ、人材育成の需要や非金銭的利益の成果発表をCBDのクリアリングハウスで行うとした(パラグラフ7, 8)。CBDのクリアリングハウスは、以前から知識交換の役割を担っており、関係するステークホルダーがアップロードした情報なども閲覧することができるようになっている(https://chm.cbd.int/en/, 2025年4月16日確認)。クリアリングハウスというCBDのホームページを通じて、利益(研究成果等の情報)を共有することが非金銭的利益配分の1つの形態になるものと考えられる。また、COP15において、技術的・科学的協力を必要とする締約国(主に開発途上国を想定)とその必要とされる支援を提供できるステークホルダーを地域支援センターによってマッチングさせる技術的・科学的協力強化のためのメカニズムが構築されており(SCBD 2022c)、DSIの非金銭的利益配分ではこれら既存のメカニズムを活用することとなった。金銭的利益の拠出者として企業(一定以上の規模)が対象となっていることを考えれば、非金銭的利益配分については、学術界が主たる担い手として期待される。KMGBFでのABSに関するゴールCおよび目標13はDSIの利益配分も含んでおり、これらの指標には非金銭的利益配分も集計することが決められている(SCBD 2025)。学術論文などに記載されている国際遵守証明書(IRCC: internationally recognized certificate of compliance)や各国発行の許可証(いわゆるPIC: prior informed consent)の固有番号を計数する事によって、この集計の一部とすることも提案されており(Nunez-Vega et al. 2025)、DSIの利益配分に関しても論文発表のような学術慣行が非金銭的利益配分として認識されることが期待される。
公的データベースに対する要請本決定の交渉過程では、開発途上国、特にアフリカ地域からINSDCなどの公的DNAデータベースにおけるDSIの管理について多くの意見が出され、先進国やアフリカ地域の妥協の結果、パラグラフ10では公的データベースに対して下記の5点の要請が実施されることとなった。
要請の対象は、正確には「DSIに依存するデータベースツールやモデルを運用し、そのような情報を一般に公開する事業者」となっている。より対象を絞るために、“large” public databasesなどの修飾も検討された(SCBD 2024b)が、採用されなかった。公的データベースであれば、規模の大小にかかわらず対象となり、その数は3000以上(DSI Scientific Network 2024)となる可能性がある。「ツールやモデル」については、類似の表現として「DSIを公開するための、データベースのようなツールやモデルを探求する」(OP4)がある。データベースはDSIに関するツールやモデルの一つであることを表しているが、現状で想定できるものはデータベースであろう。要請のうち、aとbはデータベースからユーザーに対する一方向の情報提供であるため、データベース管理者が当該データベースのウェブサイトにその内容を掲載することで対応することが可能である。一方でeは登録者がデータベース管理者に「示す」必要がある。本決定により大学や公的研究機関の研究者に対して、最も大きな影響を与えうる点は、この公的データベースへのDNA等配列の登録にかかる確認の負担である。公的データベースには今後、「DSIの共有が禁止されていない」ことを、何らかの方法で登録時に示すような仕組みが導入される可能性がある。これには解釈の幅があるものと考えられるが、対応としては、利用規約の改定とそれに同意したうえでのデータベース利用や、確認したことをより明示的に宣誓するようなチェックボックスといったことが想定される。確認したことを示す方法がどのような仕組みであるにせよ、宣誓により登録者には責任が生じることになる。この負担は、データベース側が、「登録者が知りうる限り」DSIの共有に対していかなる禁止もないことを示すことを求めるか、原産国によって禁止されていないことを登録者が「保証/確認」することを求めるかによっても、大きく変わることになる。海外産の遺伝資源を取り扱う場合には、原産国(名古屋議定書では提供国)の研究者と共同研究契約(CRA: Collaborative Research Agreement, MOU: Memorandum of Agreement, PA: Project Agreementなど)を結んだうえで、原産国(提供国)政府の国内法令にしたがって許可を得て、試料の採取・輸出(持ち出し)を行うのが一般的である。試料の利用条件は、名古屋議定書のMATに相当する共同研究契約で決めておくことが普通であるが、現状ではDNA配列の扱いを共同研究契約で定めている例はあまりなく、「共同で研究成果を公表する」などの条文を根拠に、論文発表に必要な作業として、DNA配列の公的データベースへの登録を行っているものと思われる。今後は、DNA配列の扱いに関する合意を、より明瞭な形で共同研究契約に書き込むことが奨励される。一方で、原産国や提供者とDNA配列の利用条件について、合意を得ることが困難なケースとしては、すでに国内に持ち込まれている(原産国を離れている)海外産の遺伝資源が挙げられる。国内研究機関や博物館等の生息域外コレクションにあるこれらの遺伝資源から得られたDNA配列をデータベースに登録する際には、「DSIの共有が禁止されていない」ことを、試料移転契約(MTA: material transfer agreement)で確認したり、試料提供者に尋ねることになるが、入手経路によっては利用条件が不明であることも多いと思われる。
本決定では、データベースを支援する締約国は、そのデータベースが本決定の実施を確保するように措置を取る(パラグラフ11)としているから、データベース管理者が具体的にどのような対応を取るかは、資金援助国からの指示にもよる。同様の要請は、より表現を弱めた形で、「他の政府」に対しても行っており(パラグラフ12)、CBDの非締約国であるアメリカを意識したものであると解釈される。
CBDの締約国会議が、公的データベースへ強い要請を出す背景には、原産国の意図しない中で、その国由来のDNA配列情報が公的データベースに掲載されているのではないかとの懸念がある。このような懸念を払拭するために、交渉過程においてアフリカ地域からはDSIに関する新たなデータベースをCBDの管轄で構築し、DSIの管理をCBDの下で一括して管理するという案も出された(SCBD 2024c)。結果としては、CBDが管轄するDSIに関する新たなデータベースの構築は本文書では行われないが、その余地は残すこととなった。「すべての締約国にとって透明性と説明責任のある方法で利用可能なDSIを公開するための、データベースのような新しいツールやモデルを探求する」(OP4)とし、これに関して、締約国からの意見を募り(OP5)、実施に関する補助機関(SBI)によって検討することを要請している(OP7)。
DSIの利益配分の議論は、2016年のCOP13から長い間続いてきた。COP16での決定は、DSIの利益配分が実際に始まるという点において、一つの節目となる出来事であったが、残された課題は多く、今後も国際会議を重ねて課題を解決していくことになる。
最も大きな課題は、DSIの利益配分システムの統一化・調和の確保である。DNA配列情報等の利益配分については、現在までにBBNJ協定で利益配分の対象とすること自体が決まっており、WHOではパンデミック条約(WHO 2025)が採択され(https://www.who.int/news/item/20-05-2025-world-health-assembly-adopts-historic-pandemic-agreement-to-make-the-world-more-equitable-and-safer-from-future-pandemics, 2025年6月11日確認)、「WHO病原体アクセスと利益配分システム」(PABSシステム)を確立することを決定した(図1)。“sequence information”を含む利益配分に関してはパンデミック条約の附属書として引き続き検討されていくこととなった。また、食料農業植物遺伝資源条約(ITPGRFA)でもDNA配列情報の利益配分の導入が検討されている。これらの条約が、CBDの下で運用される多数国間メカニズムに同調するという決定をせず、当該条約の下で独自のDSIに対する利益配分が行われるようになれば、それらに該当するDSIはCOP16決定の対象ではなくなり(パラグラフ1(c))、個別の条約の利益配分メカニズムに従うことになる。DNA配列情報のユーザーからすれば、条約ごとに対象となるDSIを分けて利用することは考えられない。複数の条約で異なる利益配分を行う必要が生じればユーザーは混乱し、利益の多重払いが生じる可能性もある。このような状況を避けるべく、条約横断型の金銭的利益配分のメカニズムが提案されている(Sett et al. 2024)。異なる利益配分メカニズムが乱立することの弊害はCOP16でも指摘されており、結果として、個々の条約の独立性は尊重しつつも、他条約に対してCBDの多数国間メカニズムへの乗り入れを促す記載が導入された(パラグラフ18, 27)。INSDCに登録されているデータを国際条約別に分けると、56%はCBDに分類される(Sett et al. 2024)。他の条約がDSIの利益配分を行う場合には、CBDの多数国間メカニズムと親和性の高い態様の導入が期待される。

たとえ他の条約(図1)がCBDの多数国間メカニズムとの協調路線を取ったとしても、締約国が独自に自国のDSI(自国の遺伝資源から得られたDNA配列等)に対する利益配分を求める場合には、公的データベースがこれまで担ってきた役割は大きく損なわれることになる。例えば、ブラジルなどはDNA配列についても自国の法令を適用しており、da Silva and de Oliveira(2018)によれば、ブラジルの法令(Law 13,123/15とDecree No. 8772/16)は、DSIの利用によって利益を得た場合にはブラジルに配分することを求めているようである。このような国の配列が公的データベースに入っていれば、利用者は特定国の配列を除外して分析を行うことになるか、個別の利益配分を実施するという手間が必要となる。また、これらの配列が公的データベースに登録されていない場合にも、利用者はそれらの国由来の配列を利用することを諦めるか、それらが登録されているその国独自のデータベースから対価を払って利用することになるのかもしれない。このような対応は、現在の標準的な方法でのDNA配列の比較からは逸脱しており、想定しにくい。そもそも、現在の研究慣行では、公的データベースにDNA配列を登録しなければ論文が受理されないため、DNA配列を登録できない国での生物研究は停滞を余儀なくされる。DNA配列が調査されなければ、生物多様性の解明が進まず、生物多様性の保全にも悪影響が生じるのは明らかである。本決定は締約国が独自の利益配分を定める場合でも、それが多数国間メカニズムと整合性を持ち、多数国間メカニズムと国内法令に基づく利益双方を受けることのないように要請(パラグラフ26)しているものの、DSIを対象にした利益配分に関する国内法令が、他の国においても拡大していくことは懸念される。多数国間メカニズムの効果は、COP18(2028年を予定)でレビューする(パラグラフ29)とされているから、各国によるDSI利益配分制度の乱立を抑制するためには、それまでに多数国間メカニズムの有効性を説明できる状態にしておくことが必要となる。
名古屋議定書における遺伝資源の利益配分は、配分された利益を集計する仕組みがないことから、利益配分が十分に行われていないという推測に基づく疑念を抱かせ、ABSの議論を複雑化させる要因となっている。今後行われるDSIの利益配分では、このような推測に基づく議論が繰り返されないよう注意しなければならない。そのために重要なことは、KMGBFの指標として行われる利益配分の集計である。Goal Cおよび目標13の指標として今後集計される利益配分にはDSIも含まれる(池上ほか 2024)。ここでは、金銭的利益の集計だけでなく、非金銭的利益の集計も行われる。DSI(DNA配列情報)は、生物多様性保全の基礎となるものであるから、その学術利用によって行われる成果・データの共有・共同研究における人材育成などの非金銭的利益の配分を十分に補足し、集計することがABSの全体像を把握するうえで重要となる。集計にあたっては、研究者の協力も欠かせない。論文発表の際にはIRCCやPICなどの名古屋議定書で定められた文書を適切に記載することで自動集計が容易になる(Nunez-Vega et al. 2025)。また、共同研究機関での講習会など、人材育成については研究機関で随時集計しておくのが望ましい。
南北問題を背景とし、1992年に採択されたCBDで再確認された「生物資源に対する主権的権利」を発端とするABSは、遺伝資源や遺伝資源に関する伝統的知識だけでなく、DSIへと拡大し、生物学者が今後も付き合い続けなければならないコンプライアンスの一分野となった。研究者は、海外産の遺伝資源やDSIを利用した場合には、利益配分の成果についても情報提供を行うことによって、原産国(提供国)の理解を得る努力をし続けなければならない。
本稿はナショナルバイオリソースプロジェクト(NBRP)の情報センター整備プログラムの助成の一部を活用している。なお、本稿はいずれの組織の見解を示すものではなく、著者個人としての見解をまとめたものである。