史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
Print ISSN : 0018-2478
ISSN-L : 0018-2478
第二次アヘン戦争と清朝の情報伝達
殷 晴
著者情報
ジャーナル フリー

2021 年 130 巻 10 号 p. 59-83

詳細
抄録

本稿では第二次アヘン戦争において、清朝政府がどのように相手国の情報を収集し、どのように軍事行動と対外交渉に関する情報を官僚そして一般民衆に知らせたのかを考察した。清朝政府の第二次アヘン戦争における情報伝達は、1840年代以来の対外情報の収集・共有・公表のあり方を継承したものであり、従来の仕組みの問題点を露呈させることにもなった。
清朝政府における情報の取り扱いは事実上、内政と外政で分けられていた。外政、とりわけ欧米諸国に関する情報は基本的には一律に機密扱いとされており、密奏―廷寄の形で、清朝中央と現場担当者の間のみに共有されていた。アロー号事件の発生から広州陥落までの一年間、清朝中央が広東巡撫葉名琛からの誤報と虚報にミスリードされ続けていたことが示すように、このような対外情報の共有・公表の仕組みは、虚偽情報の発見を困難にしていた。
天津条約をめぐって、清朝中央は交渉の進行と条約の締結を一般民衆に公表せず、中枢外の官僚にも詳細な情報を与えなかった。一方、不確かなものも含む断片的な情報が非公式なルートを通じて官界に広がり、清朝官僚の混乱と不安を引き起こした。
対外政策を明発上諭の形で発表せず、西洋諸国に関する上奏文を邸報に掲載しない方針は、中国における欧米人の存在を抹消することに等しかったため、イギリス側の不満を招いた。天津条約の全文を中国人に広め、条約の公刊と掲示を北京条約に明記し撤兵の条件としたことは、イギリスが公表という手続きを強制的に実行させるための措置であると同時に、自らの存在を誇示するための手段でもあった。
一方、イギリス人の新聞で公開された情報が、清朝政府の収集対象となった。戦争を経て、新聞から収集された連合軍情報の正確さが判明し、それ以降、英字新聞の収集と分析が外政に携わる官僚の通常業務とされるようになった。その結果、対外情報も公開されうるという考え方が、抵抗を受けながらも、清朝の官僚と知識人の間に徐々に浸透していった。

著者関連情報
© 2021 公益財団法人 史学会
前の記事
feedback
Top