史学雑誌
Online ISSN : 2424-2616
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  • 126 巻 (2017) 2 号 p. cover1-
    公開日: 2018/03/22
    ジャーナル フリー
  • 126 巻 (2017) 2 号 p. cover2-
    公開日: 2018/03/22
    ジャーナル フリー
  • 126 巻 (2017) 2 号 p. 1-39
    公開日: 2018/03/22
    ジャーナル 認証あり
    本稿は、『大串兎代夫関係文書』(国立国会図書館憲政資料室所蔵)中から、大串が敗戦直後に断片的に書き残した憲法改正論はどのようなものか明らかにし、天皇に統治権を残しているという形式をもって国体・帝国憲法に固執した者と批判してきた従来の日本国憲法成立史の枠組を修正するものである。
    大串は、終戦の詔書を非常大権の発動と捉え、詔書にしたがい、自主的にポツダム宣言を履行し民主化を進めようとした。特に大串が拘ったのは、バーンズ回答で示された日本の政府形態は日本国民の自由意志で決定するという点であった。大串はこれを国体の問題と捉え、国民投票によって天皇制存続を決定した後に、憲法改正をすべきと考えた。
    大串の憲法改正案の特徴は、次の三点である。
    第一に、前文として国民宣言と憲法上諭を設け、統治権が天皇に帰属すること、統治権者としての天皇の権威が国家存立の基礎にあること、ただし統治権の施行は国民に対して責任を負う政府が行うことを宣明し、国体の本質を明らかにした。天皇が国民意志にもとづき統治権を行うことは本文でも明記され、天皇の役割は儀礼的な権限や裁可に限られた。
    第二に、憲法上諭で、憲法改正の発議権を国民に認め、改正手続の法的正当性を確保しようとした。
    第三に、同時代の草案ではあまり見られない国民投票、地方自治の章が設けられ、国民の権利として、法の下での平等、教育、勤労、選挙が明記された。
    このように大串の憲法改正案は天皇に統治権を残したが、それは国民の総意で国家権威として認められ、役割も儀礼的なものに限定されていた。よって実質的には、日本国憲法の象徴天皇制とほぼ同じ内容を備えていた。さらに、国民意志にもとづく政治を徹底し、国家の重要事案の最終判断を国民投票に付そうとしていた点では、一種共和主義的なものを志向しており、その点では社会民主主義者や共産主義者と相重なる特徴を有していた。
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  • 126 巻 (2017) 2 号 p. 40-63
    公開日: 2018/03/22
    ジャーナル 認証あり
    近年の村落論では、中世後期における「村請」の一般的成立という見解に対する見直しが図られており、「地下請(じげうけ)」・「百姓請」などのように明確なかたちでは結実しなかったものも含めた、村共同体の年貢収納・算用への関与の実態把握が求められている。
     そこで本稿では、史料に恵まれる東寺領山城国上久世荘を取り上げ、村の指導層たる年寄の年貢収納・算用への関与や、その支配体制上の位置づけについて考察を加えた。
     まず、先行研究で注目されていた「沙汰人(さたにん)」の成立過程を段階的に跡づけた。「沙汰人」とは、荘官公文(くもん)の代行的職務を担う百姓のことである。とくに応永年間おける公文の職務放棄や「荘家(しょうけ)の一揆」の展開といった支配の危機のなかで、村の年寄たちが公文に代わる支配の担い手として東寺から注目されたことが、「沙汰人」成立の重要な契機となったことを指摘した。そうした年寄の「沙汰人」化は、彼らの年貢収納・算用をはじめとする荘務への関与が、限定的ながらも領主によって公認され、支配体制に位置づけられたことを示していると評価した。
     つぎに、その後の「沙汰人」の支配体制上における役割についても考察を加えた。上記のような非常事態下で成立した「沙汰人」は、通常時においても役割を与えられており、とくに公文(公文代)に対する牽制や職務の補完が求められていた。さらに、「沙汰人」は公文交代の端境期などといった、公文(公文代)が十分に職務を果たせない時期において、一時的にその職務を代行していた。そのような彼らの職務代行は、通常時においては観察することの困難な、村共同体やその指導層の年貢収納・算用への関与が顕在化したものと評価できることを述べた。
     最後に、そのような構造が変化する一六世紀前半の展開について検討を行った。文亀元(一五〇一)年には当荘の半分が武家領化されるという支配再編が起き、東寺は公文や代官といった既存の支配の担い手を設置できなくなった。そのため東寺は、なお一定の留保を要するものの、一五世紀段階とは異なり、「沙汰人」=年寄をはじめとする村の代表者たちを正式に年貢収納・算用の担い手として位置づける支配体制を採用したのであった。
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