史学雑誌
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共同体的衆民政と協同民主主義のあいだ
矢部貞治の「敗戦転向」
大谷 伸治
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2021 年 130 巻 3 号 p. 35-60

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抄録
本稿は、筆者が新たに発見した政治学者・矢部貞治が書いた三点の史料にもとづき、共同体的衆民政と協同民主主義の異同、すなわち戦前・戦時・戦後の連続/断絶を詳らかにし、その成果にもとづいて、周知の矢部の憲法改正案と天皇退位論を再検討するものである。
 敗戦を前にした矢部政治学は、戦時期の自己批判によって二度目の発展を遂げた。
 デモクラシー論では、南原繁の政治哲学に接近した。デモクラシーの本義を「古代人の自由」に見出し、共同体的衆民政が孕んだ全体主義に堕す構造的問題を克服した。それは戦前への単純な回帰ではなかった。協同民主主義は、戦前の自由的衆民政と共同体的衆民政ないし協同主義を止揚したものだった。地域の生活協同体の自治に国民が参加することで、自由と公共性を両立した民族共同体の構築をめざした。
 国体論では、里見岸雄の国体論を採り入れ、一君万民論から君民一体論へ変化した。しかし、それは戦前から影響を受けていた美濃部達吉の国体論との止揚だった。これが矢部国体論の真骨頂であった。内容自体は後追いにすぎないが、新体制期の失敗を活かし、デモクラシーと接合する国体論を構築すべく、戦前・戦時に敵対していた国体論を一本化した。
 こうして再編された根本規範としての国体の「表出」が憲法改正案であり、象徴天皇論に結実した。しかし、天皇はあくまで形式的な統治権総攬者として位置づけるべきだとした。この点では、国民主権を明記した日本国憲法とはやや距離がある。しかし、これを求めた理由は英国型の立憲君主制下の議院内閣制を理想としたからであった。また、天皇が政治責任を取って自主的に退位することを大前提としていた。
協同民主主義とは、敗戦が必至の状況に直面したからこそなされた矢部政治学そのものの自己革新であった。この意味で、共同体的衆民政から協同民主主義への変化はまさに、被強制性と自発性をあわせもった「敗戦転向」であった。
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