抄録
室町幕府の経済基盤は、基本的に、鎌倉幕府のそれを継承して、直轄領からの収入と、地頭御家人の経済的奉仕に依拠していた。しかし、両者ともに機能が低下するなか、室町幕府は、建武政権の施策を参考に、新たな賦課を開始した。地頭御家人に恩賞として給与した所領に、低額の年貢を賦課する制度で、「新恩地年貢」と呼ばれた。
本稿では、室町幕府初期の財政基盤を検討するため、おもに「新恩地年貢」を分析した。史料上に「五十分一年貢」とある賦課も同じものとみなし、以下のように分析した。幕府が所領の年貢総量を把握している場合は、年貢の五十分一を賦課し、把握していない場合は、把握した耕地である「公田」の面積を基準に算出して賦課した。年貢総量を基準とする賦課は、建武政権で採用された新しい方式である。南北朝期における年貢総量の把握の様子も概観した。また、対象となる新恩地は、室町幕府が給与したものだけでなく、建武政権が給与したものも含む。新恩地年貢は、使途や徴収方法の点で、恒例の地頭御家人役に近く、その収入減を補う役割を担った。
また、室町幕府は、鎌倉幕府から継承した直轄領を「本役所」と称し、年貢徴収に務めている様子も分析した。
しかし、鎌倉幕府から継承した財源ばかりでなく、新恩地への賦課も、実効性は低かった。戦乱のなか、恩賞地の経営も、全国一律の課税の徴収も難しかったためであろう。次第に、幕府に直接勤務する地頭御家人などに限り、新恩地年貢を幕府に負担するようになる。南北朝中期以降、「新恩地年貢」という表記は減り、「五十分一年貢」という表記が増える。「五十分一年貢」の記述には、新恩地からの負担という意識が見えない。その理由は、この負担が立場を表す指標となり、新恩地からの支出という意識が薄れていったためであろう。
室町幕府財政は、都市商業への課税など、あらたな財源で安定していくことになる。