史学雑誌
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「嘘つき首相」を燃やせ!
1840年代初頭のイギリスにおける自由貿易と民衆政治文化
小西 正紘
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2022 年 131 巻 3 号 p. 1-33

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抄録

本稿は、1842年にイギリス各地で同時多発的に発生した首相ロバート・ピールの人形燃やし(effigy burning)を扱う。ピールの穀物法政策への不満に起因するこの現象を分析することは、19世紀後半以降のイギリス国家を特徴付けることとなる自由貿易の興隆に、当時の民衆がどのように関与したのかを理解する重要な作業である。にもかかわらずピールの人形燃やしは、反穀物法同盟に代表されるリスペクタブルな改革団体の役割や、1846年に穀物法を撤廃したピール本人の「英断」を強調する先行研究の間で過小評価されてきた。これに対し本稿は、新聞史料や内務省文書を渉猟することにより、人形燃やしの実態を可能な限り再構成した。その結果、本稿はピールの人形燃やしが従来想定されていたよりもはるかに広範囲で、かつ儀礼的な筋書きに沿って行われたことと、その盛衰が議会政治における穀物法案審議の動向と連動していたことを明らかにした。ピールの人形燃やしにおいては、民衆的急進主義とポリティカル・エコノミー論という二つの思潮に支えられた反穀物法感情が、ラフ・ミュージックに代表される民衆制裁儀礼の形態をとって表出した。たとえ議会政治や世論に決定的影響を与えるまでには至らなかったにせよ、1840年代初頭という社会的・政治的危機の状況下において、民衆が公然と不満を表明するこうした伝統的抗議形態は、結社や集会に依拠する「洗練された」抗議形態と緊張関係を孕みつつも共存することができた。そのような旧来の抗議形態に接木されることによって、自由貿易という新たな理念は民衆層へと浸透しえたのである。本稿の意義は、価値規範としての自由貿易の勃興を主張するフランク・トレントマンらの自由貿易国民論を、既存の民衆政治文化との関係性という視角から捉え直した点にある。

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