宗教哲学研究
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論文
鈴木大拙の初期思想形成と心理学
――W・ジェイムズ『宗教的経験の諸相』の受容前夜
末村 正代
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2025 年 42 巻 p. 53-65

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Translated Abstract

This study examines the relationship between D. T. Suzuki’s thoughts and psychology, focusing on his development prior to the influence of W. James’s The Varieties of Religious Experience. While previous research often emphasizes the impact of James’s work, this study takes a multifaceted approach by focusing on this relationship in the context of his earlier influence. The analysis proceeds as follows: it reviews the ideological currents in Japan before Suzuki’s arrival in the United States, followed by the change in his religious views from his time in Japan to his stay in the United States. It then explores his two Zen experiences and the psychological ideas he engaged with during the early days. Regarding ideological currents in Japan, the study highlights the surge in Zen’s popularity and academic efforts to link Zen with psychology. With regard to changes in his religious perspective, it examines his evolving relationship with Paul Carus and his English translation of “Awakening of Faith in the Mahayana.” As for his two Zen experiences, the second one guided by Zen teachings was examined. The analysis discusses Suzuki’s engagement with psychological thought before his exposure to James’s work, specifically the relationship with Harald Höffding’s Psychology. In addition, the study suggests that Suzuki’s Zen experiences and his engagement with Höffding’s psychology laid the foundational core of his thought. Finally, the study introduces Suzuki’s later reflections about The Varieties of Religious Experience.

      感情及ビ活動ハ衝動ノ性質ニシテ、後者ハ殊二感情二比スレバ深ク其底ヲ有スルモノナリ。之レ蓋シ無意識的衝動ハ有識的衝動二比シテ早ク存在ストイフ原則ニヨリテナリ。自発、反射、本能及ビ衝動ノ運動ハ生活ノ発端ニシテ観念力感情等ノ次第二発達スルニツレテ活動ヲ規定スルモノナリ。然レドモ活動ガ先ツ観念及ビ感情ニ先ツテ存スルヤ明ナリ。(ハラルド・ヘフヂング著、前掲書、四三一―四三二頁、傍線引用者)

      予が常に宗教は古今東西に渉りて同一なりとの考を抱くは漠然たる妄想にあらずして、実に客観的証拠の有ることなりと思ふ、何ぞや、もし宗教の中に混和せる異分子、即ち智的分子、迷信的分子、形式的分子を除きて赤裸々となし、本来のReligious instinct, or impulse, or feeling, or perception, or intuition, whatever the designation may be, に至りては符節を合するが如し、〔……〕故に此見処よりすれば宗教の要は根本の宗教的feeling or, impulse or, somethingを養ひて如何なる外来の劣才刺衝に遭ふも、泰然として、之を失はざるに在りと言ふべきか、〔……〕シユライエルマッハーが宗教を定義して "absolute dependence" の情なりと曰ひしは、他の劣才根性を捨てゝ絶対的に至高本能の任運騰々として活動するに任かすと云ふの義に解せらるべし、(一八九八年一月二〇日 西田宛書簡)(三六/一二五 傍線引用者)

      ここでは「日本的霊性」と云ふ文字を使はないで「宗教意識」としてあるところもある。それは当時、主としてその面から日本精神史を見て居たからである。それから、日本的霊性、即ち宗教的衝動又は宗教意識の台頭を専ら浄土宗方面に限つたのは、読者の多数がそこに多大の感興を有して居たからである。(八/三三 傍線引用者)

Notes

(1) 定式化された「即非の論理」は『日本的霊性』初版所収の「金剛経の禅」で提示されるが、兵頭高夫によると、初出は一九四〇年の講演「禅経験の研究につきて」(『禅問答と悟り』三章、『鈴木大拙全集増補新版』一三、岩波書店、二〇〇〇年、四九七―五一七頁)で、「即」や「非」の解説は「金剛経の禅」より詳しい。兵頭高夫「鈴木大拙と神秘主義」『神秘と論理――神秘主義とその周辺』第三章、理想社、一九九八年、八九―一一六頁。以下、『鈴木大拙全集増補新版』(岩波書店、一九九九~二〇〇三年)からの引用は(巻/頁)と略記。

Notes

(2) 以下、主な先行研究である。①兵頭高夫、前掲論文。兵頭は、大拙の神秘主義観にもっとも影響を与えた人物、禅体験の心理分析に注力するきっかけとなった人物としてジェイムズを挙げる。②村本詔司「鈴木大拙と心理学」『神戸外大論叢』五四(六)、二〇〇三年、二三―三七頁。村本は、一九三〇年代後半以降を中心に、大拙の禅体験、禅意識、無意識、無心等を取り上げて論じるが、比較対照される心理学はジェイムズのみである。③蓮沼直應『鈴木大拙――その思想構造』春秋社、二〇二〇年。蓮沼は、大拙思想における前中後期の三区分を提示しているが、前期と中期を分かつ転換点を『諸相』の受容とする。④吉永進一「大拙とスウェーデンボルグ――その歴史的背景」『神智学と仏教』Ⅲ 第二章、法藏館、二〇二一年。吉永は、「大拙を悩ませた「一種不定の力」と科学的あるいは仏教的な合理主義との相克に、一つの解決を与え、大拙の宗教理解に決定的な影響を与えたのは、ケーラスの論争相手ウィリアム・ジェイムズであった」と指摘。

Notes

(3) 本稿では、大拙の個人的「見性(悟り)」に対して、一律「禅体験」という表記を用いる。その理由は、大拙自身が複数の語を用いる(「見性」も含む)ことに加え、それが臨済禅の伝統的「見性」と等しい正統性を有するかどうか判断できないからである。

Notes

(4) 関心の萌芽は、すでに一八八八年の山本良吉宛書簡に見られる。第四高等中学校を入学後三ヶ月で中退し、珠洲郡飯田小学校に赴任した大拙は、「余ガ当地ヘ来リシ以来学ビ得シ件ハ仏学ヲ少々〔破損〕得ル様ニナリシコト一ツナリ 其他読ミシ書物ハ荘子ト二三ノ心理書ニ止マルノミ」(一八八八年一〇月六日 山本宛書簡)(三六/九)と綴っている。

Notes

(5) 禅雑誌『禅宗』には、「世人が戦争の余響を受けて尚武の気風を奮興したる」とある。『禅宗』一九、一八九六年九月、四九頁。参禅の流行については、石井公成「近代におけるZenの登場と心の探究(1)」『駒澤大学仏教学部論集』四九、二〇一八年参照。

Notes

(6) 批判的立場としては、田岡嶺雲「元良氏の参禅日誌を読みて禅に関する我所懐を述ぶ」(『六合雑誌』一七七、一八九五年九月、田岡佐代治名義)など。

Notes

(7) 後年、宗演は元良の参禅について、「禅と社会を連結する上で極めて良き媒介と考えへた」、「一切指導に従つて行動され第一公案を通過された」と追想。「故博士参禅に関する宗演師の談話(書翰)」『元良博士と現代の心理学』弘道館、一九一三年、一六二―一六四頁。

Notes

(8) R・H・シャーフ「禅と日本のナショナリズム」『近世・近代と仏教』日本の仏教4、法藏館、一九九五年、八一―一〇八頁参照。Robert H. Sharf, “The Zen of Japanese Nationalism,” in: History of Religions, vol. 33, no. 1, 1993, pp. 1-43.

Notes

(9) 「植物界の現象を研究する之を植物学と謂ひ、鉱物界の現象を研究する之を鉱物学と謂ひ、動物界の現象を研究〔……〕、人心活動の状況を研究する之を心理学と謂ひ、知識の原則を討尋〔……〕、自然及び人為の美の原則を探究〔……〕、乃至道徳の事実を研究する之を倫理学と謂ふ。而して是等諸般の科学が各々其範囲内において研究したる結果、即ち個個独立の理法を更に概括して一科の研究法を立つ、是れ即ち哲学なり」(二三/一〇〇)。

Notes

(10) 『碧巌録』第一則に見られる「臂膊不向外曲」(臂膊、外に向かって曲がらず)。芳澤勝弘は語録の用例を考証し、「肘膊不向外曲」の意は、「自分のことは自ら守れ」、「他人のことはかまうな」、「自家の不都合を外に出さない」ではないかと指摘。芳澤勝弘「ひじ、外に曲がらず」『禅文化』一五九、一九九六年、一三六―一四五頁。

Notes

(11) 「先生はまた別の機会に、〔……〕「ひじは外に曲がらぬところに、その不自由な必然のところに、真の自由があるというのだ。〔……〕室内で「無字」を見た時よりも、ラサールでこの体験があってから、ほんとに「禅」がはっきりした。〔……〕」と、力強く結ばれた」。秋月龍珉『人類の教師・鈴木大拙』秋月龍珉著作集六、三一書房、一九七八年、一四二頁。

Notes

(12) 一九〇〇年六月一〇日、七月一四日 宗演宛書簡(三六/一九〇―一九一)。

Notes

(13) 一八九八年の西田宛書簡(六月と推定)には、「理智の力によりて本性的インポルスを規制し得るが如く意識するはイルージョンに過ぎずと思はる。科学者が如何に客観的標準なるものを説かんとするも畢竟の処は主観的諸勢力の円融調諧に至らざれば到底満足なる能はず」(三六/一六三)とも記されている。

Notes

(14) 「実に宗教の重んずる所は乾燥の了智分別にあらずして活動する情と意とにてありけり、予は当時此考にて充されをる故、生物学心理学を研究して宗教の基礎を此に定め、序でに宗教の歴史と社会の変遷とを研究して禅を説きたしと思へり、勿論美術倫理哲学など宗教に関することなからざれば之を修めおきて他日の材料となしたし」(一八九八年二月二〇日 西田宛書簡)(三六/一三二)。

Notes

(15) 秋月龍珉『世界の禅者――鈴木大拙の生涯』同時代ライブラリー129、岩波書店、一九九二年、一四九―一五〇頁、傍線引用者。大拙自身も、一九六五年の「若き日の思い出」(三四/四〇九)のなかで、この経験に言及している。

Notes

(16) 「妄想録」や「肘外に曲がらず」に着目する先行研究として、水野友晴「鈴木大拙における「禅」の発見」(『宗教哲学研究』三四、二〇一七年、一四―二八頁)。ここでは、「妄想録」における初期大拙の「禅」が、根源的一元「大化の働き」として捉えられている。

Notes

(17) 拙論「鈴木大拙における「自由」と「創造」――『荘子』を手がかりとして」『東アジア圏における文化交渉の軌跡と展望』井上克人編著、ユニウス、二〇二〇年、二二三―二四五頁参照。

Notes

(18) 「それは、円覚寺の摂心での見性経験のさらなる徹底として現われたものであるが、先生自身のちに解説されたところでは、〝自由〟と〝必然〟の「絶対矛盾的自己同一」であり、すなわち先生自身が後年に「即非の論理」として思想的に表現されるに至る原体験の、若き日のより端的な言詮(言語表詮)として注目すべきであろう」。秋月龍珉、前掲書、一九九二年、一五三頁。また、小川隆『語録の思想史――中国禅の研究』岩波書店、二〇一一年、四一二頁。

Notes

(19) ヴィルヘルム・ヴントにはじまる近代心理学をデンマークに導入した人物で、F・C・シバーンの門下。なお、中嶋優太は「西田「倫理学草案第一」における意志の自由とキャラクター――ヴント、グリーン、ヘフディングの文脈において」(『『善の研究』の百年――世界へ/世界から』第二部第七章、藤田正勝編、京都大学学術出版会、二〇一一年、一五五頁)で、西田におけるヘフディングの影響を指摘している。

Notes

(20) ハラルド・ヘフヂング著、石田新太郎訳『心理学』訂正改版、弘文堂、一八九七年、四六一―四六二頁、傍点原文、傍線引用者。

Notes

(21) 西田宛書簡に見られる「独逸訳四百二十八頁以下に意と知との衝突を説く一段」について追記しておきたい。当該箇所の邦訳は、「第七章 意志ノ心理・乙 意志及ビ自余の意識元素・一 知識及ビ感情の発達ニ伴フ意識ノ発達」で、その冒頭「(イ)衝動ノ心理」にはこうある。

Notes

   自発、反射、本能、衝動の運動(activity)は、生活(life)の発端であり、感情や観念より無意識的であるが故に先立つという意であるが、この時期の大拙の著述や書簡もまた、宗教を本能や衝動と結びつける主張が繰り返されている。別の用例も挙げておく。

Notes

之を説明するに宗教(吾所謂る宗教は大に世の宗教と異なるふしあるを知れ)はなり。〔……〕一身を捨てて絶対的に大化の為すに任せ、或は天上、或は地獄、或は人間、其趣く所に趣かば却て逍遥自在の妙を極むるを見る、之を宗教の本能的面目と云ふ、〔……〕。(③「妄想録」)(三〇/一六六―一六七 傍線引用者)

Notes

後者は、諸宗教に通底する宗教的衝動・本能・感情等について述べているが、宗教の根底と発端に〈宗教的衝動〉を見るというこの発想も、後々まで引き継がれるものである。以下、一九四四年の『日本的霊性』第一篇「鎌倉時代と日本的霊性」の冒頭である。

Notes

これまで〈日本的霊性〉は、大拙自身が「緒言」で縷々述べていることもあり、〈日本的精神〉との対立図式のもとで論じられることが多かった。もちろん、この〈宗教的衝動〉と今回の内容を安易に接続することはできないが、〈宗教的衝動〉の角度から〈日本的霊性〉の覚醒を解することで、新たな側面が見出される可能性もある。類似の用例は、前年の天皇皇后への進講をもとにした一九四七年の『仏教の大意』(「霊性的衝動」(七/三〇))や、柳宗悦の朝日文化賞受賞時の祝辞である一九六〇年の「創造の本能性」(「クリアティブ・インパルス」(二九/三))にも見られる。なお、この時期の大拙が「impulse」等を強調することに触れる先行研究として、伊吹敦「佛敎は哲學なりや宗敎なりや――近代日本における佛敎の宗敎化と禪宗・眞宗の一元的理解の誕生」(「国際禅研究」三、二〇一九年、一九五―二三四頁)、石井慶太「鈴木大拙の哲学批判――井上円了と「現象即実在論」を中心に」(『国際禅研究』七、二〇二一年、二五五―二八一頁)がある。

Notes

(22) ジョン・フラベル(John Flavel 一六二七~一六九一)の言葉。安藤礼二によると、松ケ岡文庫所蔵の『諸相』三冊のうち、大拙の書き込みがある二冊のいずれにおいても同句に強調があり、うち一冊には手書きで索引に記入されているという。安藤礼二「鈴木大拙の純粋経験」『松ケ岡文庫研究年報』三七、二〇二三年、一―八頁。

Notes

(23) 坂本弘「鈴木先生とウイリアム・ジェームズ」『鈴木大拙――人と思想』久松真一ほか編、岩波書店、一九七一年、四三頁。

Notes

(24) 本稿は、JSPS科研費21K12852の助成を受けたものです。

 
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