2025 年 3 巻 p. 61-65
企業による事業のグローバル化が進むにつれ、企業活動が世界中で人権や環境に多大な影響を及ぼしている。企業のバリューチェーン全体を見渡すと、自社や取引先の労働者の権利侵害、環境汚染による地域住民の健康被害、開発による先住民族の土地収奪や地域住民の強制退去、製品・サービスによる消費者の安全の権利の侵害、気候変動への影響などの深刻な問題が浮かび上がる。
近年、国際社会では、企業が事業活動を通じて与える人権への負の影響に対する責任がますます重視されるようになっている。企業がこうした影響に対処する責任を持つことを明確にしたのが、2011年に国連人権理事会で承認された「ビジネスと人権に関する指導原則(以下、指導原則)1)」である。この指導原則は、企業が「人権デュー・ディリジェンス」を通じて人権への負の影響を特定し評価して、予防・軽減・是正に努めることを求めている。これまで企業の社会的責任として求められてきた企業活動の透明性と倫理性への対応の中で、企業の人権尊重責任がさらに強調されるようになった。
2020年に日本政府が「ビジネスと人権に関する国別行動計画」を発表し、各省庁での動きが進んでいることも後押しして、日本においても近年、ビジネスと人権の分野への関心が高まっている。2023年7~8月には、国連ビジネスと人権ワーキンググループが初めて来日し、日本における指導原則の実施状況および課題について調査した。同グループは東京、大阪、愛知、北海道、福島などを訪問し、政府・自治体関係者、企業、市民社会組織、業界団体、労働組合、労働者、学者、弁護士、国際機関などと面談・協議を行った。その報告書2)が2024年5月28日に発表され、6月26日に開催された人権理事会で報告された。ワーキンググループがさまざまなステークホルダーに聞き取りを行った結果を反映し、報告書は日本が抱えるビジネスと人権に関する幅広い課題を指摘している。
報告書では、日本国内においてリスクに直面しているグループとして、女性、性的マイノリティ、障害者、マイノリティグループと先住民族(アイヌ民族、在日コリアン・在日中国人、被差別部落出身者を含む)、子ども、高齢者があげられている。また、懸念されるテーマ別分野として、健康・気候変動・自然環境(福島第一原発事故やPFASによる水の汚染の問題を含む)、労働者の権利(労働組合、長時間労働、移住労働者と技能実習制度の問題を含む)、メディアとエンターテイメント業界、バリューチェーンと金融規制が取り上げられた。
国外においては、サプライチェーンにおける人権侵害と日本企業のつながりが指摘されている。強制労働や児童労働、先住民族の土地の収奪や住民の強制退去、水や大気などの環境汚染や健康被害などがあげられる。また、人権や環境を守るために声を上げる活動家の弾圧に日本企業がサプライチェーンでつながる可能性も指摘されている。
企業が製品・サービスを生み出し顧客や消費者に提供するまでの過程を見ると、原材料の調達から加工・製造、販売といったそれぞれの過程が国内外でつながっている。事業のグローバル化や移住労働者の増加などに伴い、企業が与える人権や環境への影響の範囲が広がっており、その影響が見えにくくなっている一方で、人権・環境に影響を受けた人びとが救済を求める声は大きくなってきている。
指導原則の原則18は、企業が、自社の事業活動によって与える人権への負の影響を特定して評価することを求めている。そのためには、「潜在的に影響を受けるグループやその他の関連ステークホルダーとの有意義な協議」を行うことが必要である。「人権への影響を正確に評価」するためには、「ステークホルダーと直接協議することによって潜在的に影響を受けるステークホルダーの懸念を理解するように努めるべき」であるとしている。また、こうした直接の協議が難しい場合には、「市民社会組織の人々や人権活動家などを含む、信頼できる独立した専門家との協議」を適切な代替策として示している。企業が人権や環境に与える負の影響に対処するためには、影響を受けるステークホルダーのうち、特にライツホルダー(権利保持者)、もしくはそうした視点を持つNGOや活動家などの専門家との対話・協議が必要になるということである。ところが、人権への負の影響に対処するための企業とNGOの対話・協議の好事例は多くないというのが現状である。
「有意義な対話」が進まない理由は企業側・NGO側双方に多岐にわたって存在する。
1.企業側の課題
まず、企業側の課題としては、以下の点が挙げられる。
⑴ 人権リスクの可視化の難しさ
環境問題においては、企業は自社の事業活動による負の影響が、どこでどれだけ発生しているかを定量的に把握することができる。CO2の排出量をはじめ、空気や水の汚染状況、あるいは熱帯雨林の伐採の実態など、企業は可視化されたデータを使って、環境に対する影響評価を実施し、その対策と効果測定を行うPDCAサイクルを回すことができる。しかし、人権問題については、可視化された客観的なデータの取得が困難なため、事業活動が与える負の影響は、事業活動に関わる多くの人々との対話などの手法を通じてしか把握することができない。それにもかかわらず、この対話というプロセスの重要性を十分に認識していない企業が多い。
⑵ CSR監査と人権デュー・ディリジェンスの混同
企業はしばしば、サプライヤーへのアンケート調査やCSR監査を実施することで、人権デュー・ディリジェンスを行ったと誤解している。しかし、これらは顕在化した人権侵害リスクの現状把握レベルに留まるに過ぎない。それに対して人権デュー・ディリジェンスは、指導原則が求める潜在的な人権リスクの洗い出しとその対策を通じて、人権侵害の予防まで行うものだ。その違いを理解すれば、自ずと誰とどのような目的で対話を持たなければならないかが明確になる。さらに、今まで対象としてこなかったライツホルダーやその周辺で支援活動を行っているNGOや労働組合などとの対話を持たなければ、潜在的なリスクは見えてこないことが理解できるだろう。
⑶ 対話の目的が不明確
対話の目的を「ステークホルダー、特にライツホルダーの懸念を理解し、解決策を共に考える場」とするべきところ、対話の目的が明確になっていないため、相手に対して対話に必要となる十分なインプットができず、結果的に一般論に終始し、有意義な対話になっていないことが多い。
⑷ NGOとの連携経験が少ない
企業やNGOも人々の人権侵害の予防や救済という同じ方向に向かって取り組みを進めており、機能やアプローチの方法が違う独立した組織であっても、そこでの対話は対等な立場のパートナーシップに基づくものでなければならない。しかしながら企業側に、そのような連携の経験が少ないことから、NGOをコンサルタントや下請け業者と同じように捉え、自分たちが考えるべき答えを与えてもらえるものだと思い込んでいるケースが少なくない。このような認識のずれが、対話を形骸化させている。
2.NGO側の課題
一方、人権侵害の被害者を救済するために取り組んでいるNGO側にも以下のような課題がある。
⑴ 企業の視点への理解不足
企業の事業構造や経営上の制約、ビジネスロジックを十分に理解しないまま、対立的なアプローチを取るケースがあり、企業が対話に消極的になる要因となっている。
⑵ 共通言語の欠如
NGOも「指導原則」への理解を深め、これを企業側との共通言語として使うべきである。企業活動がどのように人々に負の影響を与えて、人権侵害に至っているのか、企業視点でその原因を指摘すれば、企業側を対話のテーブルに乗せやすくするとともに、経営リスクの視点から取組みを促すように働きかけることができるが、現状ではNGO側の理解が十分とは言えない。
「有意義な対話」を進めるために、企業はNGOをどのように認識するべきだろうか。企業とNGOの関係はパートナーシップであると述べたが、この関係性を企業関係者にとってなじみのある表現に例えて説明してみたい。企業にとって、市場の実態を理解するには、その市場の顧客を知る必要があるというのが基本である。そして企業から見たNGOの強みは、自社で得られない現場の顧客情報を持っていることである。つまり、企業にとってのNGOとは、現場の顧客の詳しい情報を持っている重要な「お取引先」的な存在であると位置づけてみるとよいだろう。「お取引先」であるNGOから的確な情報を得るためには、普段からNGOのホームページを閲覧したり、イベントに参加したりして考え方や取り組み内容を理解するとともに、人的・物的な活動支援を行うことで関係性を高めておく必要がある。また、自社の事業内容について、積極的に情報のインプットを行い理解してもらうことで、企業が必要としている具体的な情報を得ることができる。さらに、1つのNGOだけでなく、他の地域で活動しているNGO等も紹介してもらうことで、より適切なアドバイスを得ることにもつながる可能性がある。そうして得られた結果をNGOにフィードバックしながら、双方向で情報交換を継続的に行うことが信頼構築のために重要である。
具体的に対話を実施するにあたっては、まず事業全般の人権侵害リスクの評価を行い、優先度の高い人権侵害リスクがどこにあるのかを明確にしておく必要がある。そのリスクはどこの・誰の・どのような人権侵害リスクなのかという仮説を立て、普段から関係性を持っているNGOにその仮説の妥当性についての意見を求めるとともに、該当するライツホルダーの実情に詳しいNGOを紹介してもらい、対話を実施するとよい。対話の中では、人権侵害リスクの情報提供を受ける一方で、そのリスクに負の影響を与える事業活動の実態と負の影響の軽減策についての仮説提案に対する意見をもらうことが建設的な意見交換につながり、企業の独りよがりにならない、よりよい解決方法につながる双方にとっての有意義な対話になっていくものと考えられる。
JANICは、企業とNGOが対等なパートナーシップを構築し、「有意義な対話」を実現するための様々な取り組みを行っている。以下に主な活動を紹介する。
1.対話促進ツールの開発
JANICは、市民社会の立場から、政府やビジネスセクターに対し、責任ある企業行動の重要性について働きかけている。そこで、JANICの調査提言部門THINK Lobbyでは、企業の行動指針を示し、ステークホルダーとの対話を推進するためのツールキットとして、「公正な社会の実現に向けた対話のためのチェックシート」をガイダンスとセットで作成した。
⑴ チェックシートの概要と構成
このチェックシートは、指導原則およびSDGsゴール16「平和と公正をすべての人に」を軸としており、企業が自らの人権リスクを評価し、対話を進めるための具体的な指針を提供するものである。企業が以下の5つの評価テーマに基づいてExcel形式のチェックシートで自己評価を行えるよう設計されている:
1.公正な社会の実現に向けたコミットメント
2.コミットメント実現のための推進体制づくり
3.コミットメント実現のための社内コミュニケーション
4.コミットメント実現のためのサプライチェーンにおけるコミュニケーション
5.コミットメント実現のためのステークホルダー、特にライツホルダーとの対話・エンゲージメント
これらのテーマの下に、14の中項目と実際の評価項目となる40の小項目を設定している。また、それぞれの項目に対応できていると評価できる企業の取り組み事例を一例として提示することで、期待される行動がわかるように工夫している。
⑵ ライツホルダーとの対話の重要性
評価テーマ5のステークホルダー/ライツホルダーとの対話・協議では、自社が与える人権・環境への負の影響を把握し、影響を受けるライツホルダーを特定して対話を行い、負の影響を把握して、その予防・軽減、是正・救済のための対応を情報公開しているかを確認している。
対話すべきライツホルダーには、自社の従業員だけでなく、自社の拠点・工場等周辺の地域住民、サプライヤーや下請事業者等の自社の取引先や顧客の従業員・労働者、さらに、サプライチェーンの労働者、消費者等、バリューチェーン全体で影響を受ける人々を含めている。特に、国際人権基準等で脆弱な立場に置かれやすいとされる人々(女性、子ども・若年者、高齢者、障害者、性的マイノリティ、外国籍の人々、非正規労働者、移住労働者、環境活動家・人権擁護活動家、紛争地域の人々等)を考慮することを求めている。
また、チェックシートでは、特定したすべてのライツホルダーに対して、理解できる言語で利用できる相談・通報窓口を設置して利用方法を周知しているか、そうした窓口を含むグリーバンス・メカニズム(苦情処理メカニズム)の設置・運用・見直しにおいて、影響を受けるライツホルダー、またはライツホルダーの視点を持つグループ等と対話をしているかを確認している。
ライツホルダーが受ける人権・環境等への負の影響が社会的・経済的構造によるものであることを鑑みて、チェックシートでは、ライツホルダーと対話するだけでなく、そうした構造的問題に対処するため、ライツホルダーへの負の影響を防止・軽減する影響力を持つステークホルダーを特定して連携しているかを確認している。
⑶ チェックシートの活用と期待される成果
チェックシートを活用することで、企業はコミットメントの表明から推進体制づくり、社内外のコミュニケーションを進め、ステークホルダー/ライツホルダーとの対話を重ねながら、取り組みのステージを進めていくことができる。評価テーマ5にある、自社が与える人権や環境への影響を把握し、防止・軽減・是正につなげるための「有意義な対話」においては、評価項目1~4の対応状況を対話相手となるステークホルダー/ライツホルダーに確認することが想定されるため、自社の現状を確認するツールとして活用することができる。また、市民社会組織からは、連携先企業が、人権や環境への負の影響を与えていないかを確認するためのツールとしてチェックシートを活用したいという声が届いている。
2.対話の場の提供
JANICは、企業とNGOとの連携を促進するため、NGO正会員および企業会員を対象に定期的な勉強会と交流会を開催している。これらの場では、NGOの支援現場におけるライツホルダーの直面する課題について最新情報を共有するとともに、NGOと企業による対話の実践事例を紹介しあい、具体的な課題に対する解決策を議論し、セクターを越えた相互理解と信頼関係の醸成を目的としている。
3.企業向け研修プログラムの実施
企業向けに、ビジネスと人権に関する研修や経営陣向けのダイアログ(対話)なども実施している。また、コンサルティング企業との業務提携により、市民社会側からの知見や、JANICのネットワークに基づく情報およびリソースを提供している。
企業のサステナビリティの取り組みの情報開示を見ると、「ステークホルダーエンゲージメント」として関連するステークホルダーとの対話実績を公開している大手企業が増えている。しかし、こうした対話を単なる形式的なものに終わらせず、人権に負の影響を受けるライツホルダーにとって救済につながる真に「有意義」なものとすることが重要である。
企業が事業活動を通じて与える人権や環境への負の影響を予防・軽減し、対話を通じてステークホルダーとの信頼関係を築くことは、持続可能な社会の基盤となる。JANICは、「有意義な対話」を通じて企業が真に社会的責任を果たせるよう、市民社会組織、政府、アカデミアなどとも連携しながら、セクター間の橋渡し役としてサポートを続けていく。