東洋音楽研究
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唐代十部伎の性格
岸辺 成雄
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1951 年 1951 巻 9 号 p. 113-137,en8

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抄録

唐代の百花燎乱たる宮廷生活に缺くべからざる要素であつた音樂舞踊は、雅樂・燕樂・俗樂・胡樂・散樂等に大別できるが、更に十部伎・二部伎・法曲・胡部新聲などの特別の組織或は内容をもつた樂曲の種別名が行はれてゐた。法曲とはかの有名な梨園で (註一) 玄宗皇帝が教習した音樂であり、胡部新聲 (註二) とは唐代になつて新たに西域から中國に流れ來つて、唐代音樂界を風靡し渇樂曲の總稱で、圭として教坊で (註三) 教習された。それに對して十部伎と二部伎と (註四) は、禮樂の司たる太常寺の (註五) 太樂署に所屬する宮廷燕饗樂 (一般に燕樂と略稱する) (註六) の一部で、二部伎は、雅樂の堂上登歌、堂下樂懸の外形を借り、内容には胡樂と俗樂とを盛つた新形式の燕饗音樂十四曲を集成したもので (註七) 、中唐の玄宗朝に完成した。而して十部伎は、隋の文帝の時に七部伎として發足し、煬帝に (フウダイ) 至つて九部伎に擴大し、唐初太宗の時に十部伎として完成したもの (註八) で、印度、西域、朝鮮の各伎に中國俗樂を加へて編成した、一大組曲の如きものである。
十部伎と二部伎とはいつれも唐代音樂の榮華を代表する重要な樂曲上の制度であつて、音樂について記すことのすこぶる乏しい史書にもその名は屡々現れ、その組織についても簡略ながら記されてゐる。この點同じく唐代音樂の最大の活動の場であつた教坊と梨園が、史書にその組織内容を殆んど記されてゐないのと異るものがある。この相異には何らかの原因があらう。
しかし、十部伎及び二部伎にしても、史書に見えるその説明は甚だしく簡單で、その組織内容を正しく理解するに足るものではない。むしろその根本的性格についての誤解すらが永らく行はれて來た。二部伎の本質については、かつて本誌に於いて論じたことがある (註九) 。この小論では、十部伎の基本的性格を明かにしようとするのである。

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