東洋音楽研究
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最新号
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  • 演奏様式の解釈としてのジャンル
    井上 さゆり
    2008 年 2008 巻 73 号 p. 1-18
    発行日: 2008/08/31
    公開日: 2012/09/05
    ジャーナル フリー
    現在のビルマ (ミャンマー) において「古典歌謡」として位置づけられている歌謡作品群「大歌謡 (thachingyi)」は、二十前後の下位ジャンルに区分されている。特定のジャンルに属する作品は旋律を共有して類似しているものが多く、またジャンル区分は歌謡集において明示されていることもあり、作品のジャンル区分についての疑問はこれまで呈されてこなかった。
    筆者はこれまでの研究において、作品が作られた時点では作品の全てにジャンル名が付されていたわけではないことを指摘した。一八七〇年に編纂された貝葉写本において、大歌謡作品を全ていずれかのジャンルに区分したことが初めて確認できたが、それ以降に作られた歌謡集においても、ジャンル帰属が一定しない作品も見られた。そのことから、作品とジャンルの関係は、もともとは固定したものではなかったのではないかと考えられた。
    本稿では、各ジャンルに属する作品の全てが、他のジャンルの作品と排他的に区別される指標を持っているわけではないことを論じる。作品の中には、二つのジャンルに解釈されて演奏し分けられている作品、またはジャンルを定義するとされる指標の一つである調律種を他の調律種と交換して演奏される作品などがある。ジャンル帰属は異なるが、歌詞と旋律の両方を共有した二つの作品もある。これらの、従来のジャンル定義に当てはまらない作品は、常に二つのジャンルの指標に関係しており、三つ以上のジャンルの指標に関係することはない。このことから、各ジャンルは創作技法が変化していく時間軸上に並べられ、これらの例は、ジャンルからジャンルへの移行期を示す作品であると考えることができる。ジャンルという括りは、ある特定の指標を共有する作品が複数存在することから喚起されるものであるといえるが、その範囲は決して他のジャンルと排他的に区別されるものではなく、ジャンルとジャンルの間には創作の連続性が見られる。
  • 琉球・台湾に焦点をあてて
    葛西 周
    2008 年 2008 巻 73 号 p. 21-40
    発行日: 2008/08/31
    公開日: 2012/09/05
    ジャーナル フリー
    本論文は、国家イベントとして近代盛んに行われた博覧会における音楽を、日本の植民地主義という視点から考察することを目的としたものである。西洋とは異なる状況下で進められた日本の植民地主義とその文化的影響について考察する上では、西洋/非西洋=支配/被支配という構図から離れ、個々の事例から植民地政策による波紋や同時代の社会的思潮を汲み取ることが特に必要である。そのような問題意識を踏まえ、本稿では明治三六年の内国勧業博覧会における琉球手踊および昭和一〇年の台湾博覧会における高砂族舞踊という二つの対象について考察した。
    「見世物」として諸民族の生活が展示された内国勧業博覧会の学術人類館では、地域特有の風俗を、「普通」という基準を作る内地の人々の前で披露するのは「恥ずべきこと」という発想が、琉球に顕著に生まれていたことを確認した。主催側の内地から見れば「他者」の「展示」になるが、「展示」される側から見ると、同じ「自己」であると教育されてきた内地に「他者」としてラベリングされたことを意味する。これによって、内地から見た植民地像と植民地の側の自己イメージとの間にずれが生じ、植民地は「不当」なイメージに対峙すると同時に、自己の再認識を迫られたと指摘できる。他方で、台湾博覧会における高砂族舞踊のような伝統的な演目は、支配層によって娯楽として消費されていたが、その一方で高砂族舞踊の出演者が支配層の前での上演に対して拒絶反応をあらわにせず、少なくとも表向きは肯定的な反応を示していたことも確認できた。
    日本の植民地主義という文脈から文化イデオロギーについてアプローチする際には、「同化」のみならず「異化」が持つ暴力性もまた軽視せざる問題であり、エキゾチシズムをもって植民地の舞踊を眼差すことへの内地人の欲求が「異化」を生み出したと言える。政策レベル/精神レベルで行われた「同化」と「異化」との間の歪みが、植民地時代に披露された芸能にも顕著に見られることを本論文では実証した。
  • 蒲生 郷昭
    2008 年 2008 巻 73 号 p. 43-61
    発行日: 2008/08/31
    公開日: 2012/09/05
    ジャーナル フリー
    本稿は、絵画資料にもとづきながら、「三曲合奏」はいつごろから行われていたのか、という問題を考察するものである。
    明暦元年 (一六五五) 刊の遊女評判記『難波物語』には、床に並べて置かれた三味線、箏、尺八を描いた挿絵がある。年代の明確な資料としては、箏の加わった三楽器の組み合わせの初見である。
    しかし、それより早い「元和~寛永年間初期」の作とされる相国寺蔵『花下遊楽図屏風』には、三味線と胡弓による合奏と、三味線と箏、胡弓による合奏とが、描かれている。さらに、ほぼおなじ時期の合奏を示すと考えられる、つぎの資料がある。
    すなわち、『声曲類纂』巻之一に「寛永正保の頃の古画六枚屏風の内縮図」として掲げられている二つの挿絵のうちの、遊里の遊興を描いているほうの挿絵である。これは模写であり、「古画六枚屏風」は現存しない。しかし、かつて吉川英史が『乙部屏風』として紹介した模本が別に存在する。二つの模写は構図と人物配置が違っていて、その点では『乙部屏風』のほうが、原本に忠実であると考えられる。
    『乙部屏風』でいえば、遊里場面の中ほどにいる十一人は、一つのグループを形成している。つまり、三味線、胡弓、尺八が伴奏する歌に合わせて踊られている踊りを見ながら、客が飲食している様子が描かれているのである。踊りを度外視すれば、そこで演奏されている音楽も、後の三曲の楽器による合奏にほかならない。
    すなわち、これらの楽器による合奏は、こんにちいうところの「三曲」が確立するよりかなり前の寛永ごろには、すでに行われていたことがわかる。これらの楽器をさまざまに組み合わせた絵はその後も描かれ、こういった合奏が早い時期から盛んに行われていたことをよく示している。その流れをうけて、こんにちの三曲合奏につながる合奏が行われるようになるのである。
  • 新堀 歓乃
    2008 年 2008 巻 73 号 p. 63-75
    発行日: 2008/08/31
    公開日: 2012/09/05
    ジャーナル フリー
    ご詠歌は日本に伝わる宗教音楽のひとつであり、主に在家の仏教信者が四国遍路などの巡礼や葬式などの儀礼でご詠歌をうたうほか、稽古事としてもこれを伝習している。本稿は、現在に伝わるご詠歌諸流派の基礎を形作った大和流を対象に、その成立過程を明らかにする. 大和流は一九二一年、山崎千久松によって創始された。千久松はご詠歌の基本となる節を十一に整理し、ご詠歌の普及と仏教信者の教化を図って大和流の伝承団体「大和講」を設立した。大和講はその長である講主と、講主の下でご詠歌を伝承する多くの講員から成るが、千久松は自らが講主となってご詠歌の指導に当たり講員を増やしていった。
    こうして大和講が成立すると、ご詠歌の伝承が大きく変容した。第一に、大和講はご詠歌の歌詞と節を記した歌集を全国発売して伝承の統一を図った。第二に、ご詠歌の歌い手が検定試験に合格すると階級が取得できるという制度を置いて、日本の諸芸能に見られるような家元制度と同様の伝承組織を形成した。第三に、詠唱技術を競う全国規模のコンクールを開催するようになった。こうして大和講は、中央の本部が全国各地の支部を統括するという一大組織を築くことができた。
    大和講が全国に広く普及することができた要因として最も重要と思われるのが、家元制度と同様の伝承組織を形成したことである。大和講では、一定の階級を取得した者が講主に代わってご詠歌を指導するため、講主自身が直接伝授に当たることなく多くの弟子を抱えることができる。これは家元制度に特徴的なもので、大和講ではこうした制度を備えたために伝承者を増やして一大組織を築くことができたと考えられる。
  • 長嶺 亮子
    2008 年 2008 巻 73 号 p. 77-96
    発行日: 2008/08/31
    公開日: 2012/09/05
    ジャーナル フリー
    二十世紀初頭に台湾で成立した歌仔戲は、社会情勢の影響を受けながら発展を続け、一九九〇年代になると精緻歌仔戯とよばれるより洗練され舞台芸術化した新しいジャンルを確立した。これは、脚本や西洋音楽を含む他の芸術様式からの導入、また演目の創作過程における専門分業化などにより、それまで大概にして即興的で荒削りであった歌仔戯を精緻化し、芸術性を高めたものである。民間劇団の中で形成されたこの精緻歌仔戯は、台湾唯一の公立歌仔戯劇団である宜蘭県立蘭陽戯劇団においても積極的に取り組みが行なわれている。
    公立劇団と民間劇団の作品では、程度の差はありながらもどちらも伝統的な歌仔戯の旋律である [七字調] や [都馬調] などを使用しており、またその用い方も従来の歌仔戯の音楽様式をある程度踏まえたものとなっている。しかし、新たに導入された面、すなわち新しく創作された楽曲の構造などにみられる精緻化の度合いは、公立劇団と民間劇団の社会的立場や運営方針の違いなどにより一様ではない。精緻歌仔戯の「精緻化」という概念自体が曖昧で、諸様式は厳密に確立していないが、それにも関わらず政府は精緻歌仔戯が台湾を代表するものであるとして、公立と民間を問わず推奨している。
    集客や劇団の独自性を追求するために斬新さが強調された民間劇団の作品は、歌仔戯の「発展」の姿を提示する。その一方、観客動員を最優先にする必要のない公立劇団は、芸術的発展を模索しつつも伝統的な様式を重視した作品で劇団の活動理念である「伝統の継承」を示すのであり、これはそれまで「発展」が主体であった歌仔戯に対する新しい動きといえる。精緻歌仔戯の音楽の様式は多様であり、「精緻化」だけでなく伝統的なものと共存するが、その要因は台湾の伝統文化の継承と発展を同時に推し進める政策にあるといえよう。
  • 劉 麟玉
    2008 年 2008 巻 73 号 p. 97-101
    発行日: 2008/08/31
    公開日: 2012/09/05
    ジャーナル フリー
  • 尾高 暁子
    2008 年 2008 巻 73 号 p. 102-106
    発行日: 2008/08/31
    公開日: 2012/09/05
    ジャーナル フリー
  • 水野 信男
    2008 年 2008 巻 73 号 p. 107-110
    発行日: 2008/08/31
    公開日: 2012/09/05
    ジャーナル フリー
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