本研究は、商船学校の「学校の歌の文化」を対象とし、その文化と俗謡の文化の相互関係のありようを詳らかにしてゆくことをめざすものである。筆者は、「学校の歌の文化」という概念を「校歌や応援歌、寮歌といった学校に属する歌だけでなく、生徒や学生が皆で口ずさむレパートリーをも含めた総体」として捉えている。従来の音楽研究には、学校の歌の世界と俗謡の世界が相互に作用し合いつつ展開してきた過程に着目するという観点はほとんどみられなかった。
こうした本研究の位置取りを踏まえたうえで、本論文では、商船学校の《白菊の歌》に焦点を絞る。この歌は、当初は大島商船学校の歌であったが、その後書生節に転じ、さらに東京商船学校の歌になり、ついにはこの学校を代表する寮歌として表象されるようになった。
その展開のありようをみてゆくために、《白菊の歌》の旋律やリズム・歌われ方の変移、および歌詞中の漢詩の改変について考察し、また、当時出版された唄本やそのレパートリー、東京商船学校の卒業生の証言や校内で発行された歌集、同窓会誌や新聞記事に記されている言説を調査・分析する。
その過程で議論してゆくことを通じて、この歌が商船学校の歌の文化と俗謡の文化の間で往還を重ねるプロセスのなかで、書生節に転じた際に新たな変容が生じつつも(商船)学校の歌であるという記憶を保ち続けていたり、東京商船学校の歌の文化の中に俗謡の類として受け入れられたもののその後のこの文化の再編成につれてその位置づけを変化させていったり、といった商船学校の歌の文化と俗謡の文化の相互作用のひとつの特徴的なありようが明らかになる。また、巷の人々が抱く「商船学校の学生」の表象と商船学校の学生自らが抱くそれとの関係性という問題を提起し、この問題が、商船学校の歌の文化と俗謡の文化の相互関係を考える本研究において重要であることを指摘する。
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