本論の目的は、ヘンデル Georg Friedrich Händel(1685–1759)のオラトリオ《メサイア Messiah》の日本初演の実態を、史料に基づいて明らかにすると共に、その成立の経緯を考察することである。《メサイア》の演奏は、〈ハレルヤ〉コーラスを中心に、明治期から散発的に行われてきた。全3部を包含する形での「通し演奏」は1920年代半ばに本格化するが、青山学院のゲーリー Fred Daniel Gealyと大阪コーラル・ソサエティの長井斉と、いずれの演奏が本邦初演に当たるかについては、今日なお疑義がある。
本論では、残存する演奏会プログラムと報道記事とに基づいて、1925年の東京での日本初演、1927年の関西初演と東京再演という3つの《メサイア》演奏について、日時や会場、独唱者と演奏曲目の実態を明らかにし、特定曲を省略する演奏習慣を論じた。東京再演の合唱メンバーの顔触れからは、キリスト教宣教師の会派を超えた連携が浮かび上がってきた。
力量のある合唱を必要とする《メサイア》が1920年代半ばに次々と通し演奏された背景として、1920年10月に東京で行われた第8回世界日曜学校大会の重要性を指摘する。世界大戦で4年遅れで開催された大会は、特設会場が開会直前に焼失したため、会場を帝国劇場に変更して、ボストン大学讃美歌学教授スミス H. Augustine Smith指揮の下、千人の聖歌隊が海軍軍楽隊の伴奏で《メサイア》の合唱曲3曲他を歌った。津川主一は、これが「日本のキリスト教会に合唱の熱を捲き起こし」「一生を聖なる音楽に捧げる決心をさせられた」と記している。鳥居忠五郎や小泉功、長井斉らも同様である。
宗教的オラトリオを合唱する宣教師らの演奏活動は、近年の合唱研究でも見落とされているが、《メサイア》の受容において、受け手側の集団的な関心の醸成に寄与したものとして、その貢献を再評価する。
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