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クエリ検索: "やくみつる"
6件中 1-6の結果を表示しています
  • 大森 安恵
    東京女子医科大学雑誌
    2017年 87 巻 6 号 160-164
    発行日: 2017/12/25
    公開日: 2017/12/25
    ジャーナル フリー

    This paper is based on a special lecture in the 12th annual meeting of The Laughter and Health Association in October, 2017. In 2016, one of my co-workers, Dr. Shun Ito reported about the mechanism of lowered blood glucose, the decline due to laughter.

    As diabetes continues to increase, which studies point out as national disease, I thought that this year's theme ought to be "Clinical treatment of Diabetes as seen through Senryu" in accordance with the fundamental spirit of the Laughter and Health Association.

    As I think this theme will contribute not only to ordinary People, but also to medical doctors in training for diabetes or for beginner medical doctors, I decided to write this report. Senryu have been made by diabetic patients in Ebina General Hospital・Diabetes Center and diabetic problems are mixed.

    The definition of diabetes, the history of diabetes, the treatment of diabetes, diabeticcomplication, specially dementia etc. have been recorded.

  • ―日本文学非専攻の学部留学生を対象に―
    山﨑 智子
    日本語教育方法研究会誌
    2019年 25 巻 2 号 96-97
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/07/02
    研究報告書・技術報告書 フリー
    In this paper, I will report on activities carried out in the class "Japanese Culture Studies" that assumes a point of view on Japanese literature. For foreign undergraduate students not specializing in Japanese literature, learning objectives are set to make them use their Japanese language proficiency to the fullest, and to allow them to express their thoughts and doubts in a small number of morae. For that purpose, they read literature on senryû and analyzed prize-winning works from various competitions.
  • ―テレビ報道を事例に―
    水出 幸輝
    スポーツ社会学研究
    2016年 24 巻 1 号 79-92
    発行日: 2016/03/25
    公開日: 2016/04/25
    ジャーナル フリー
     本稿では、2020 年オリンピック・パラリンピックの東京開催決定を伝えたテレビ報道の検討を試みる。第一に、東京開催決定報道においてテレビが描いた社会的現実の偏りを同時期の世論調査と比較することで明らかにし、第二に、その偏りをE. Said の「オリエンタリズム」以来議論されるようになった「他者化」の概念を用いて考察した。
     招致委員会による「被災地・福島」の他者化を指摘し、他者化ではなく、包摂の必要性を指摘するメディア関係者も存在していた。しかし、本稿ではテレビ報道において他者化された存在として、日本国外は中国・韓国を、日本国内は「被災地・福島」を挙げる。両者は東京開催決定に否定的な態度を示すことで他者化されていた。他者である「かれら」に対置される存在の「われわれ」は、送り手が設定した「われわれ」日本人であるが、「われわれ」には東京開催決定を喜ぶ者として、日本にとっての外国が含まれる場合もあった。
     招致成功の喜びを表現する「われわれ」と、それに対置する存在で否定的な見解を示す「かれら」(「被災地・福島」)という構図によって、「かれら」は“当然東京開催決定に否定的である”というステレオタイプが醸成される可能性がある。それは、一方で、「われわれ」に位置づけられた東京の人々の中に存在していた否定的な見解を、“当然東京招致成功に肯定的である”というステレオタイプによって覆い隠してしまってもいる。東京開催決定報道で採用された、喜びを表現する「われわれ」―喜びを表現できない「かれら」という構図は、東京の人々の中に存在する否定的な意見、すなわち、東京開催の当事者である人々が抱える問題を不可視化してしまうものであった。
  • 片寄 晴弘, 平田 圭二, 宮田 一乗, 原田 利宣, 西田 豊明, 諏訪 正樹, 阿部 明典
    人工知能
    2009年 24 巻 3 号 434-444
    発行日: 2009/05/01
    公開日: 2020/09/29
    解説誌・一般情報誌 フリー

    非言語メディアは本質的に曖昧かつ主観的な記述でしか表現できないという性質がある.これまで,音楽,絵画,造形,モーションといった非言語メディアのデザイン支援の研究は,人工知能とあまり関連づけることなく,また互いにも関連づけることなく進展してきた.しかし,非言語メディアのデザイン支援の研究事例を俯瞰してみると,意外にも共通点が多いことに気づく.例えば,デザイン対象である非言語メディアの表現・記述の階層構造,すでに存在するコンテンツをいずれかのレベルで再利用して新しいコンテンツを生成する方法論,デザインプロセスにおける創造性支援などが共通点としてあげられる.本近未来チャレンジテーマ「事例に基づくデザイン支援と評価基盤の構築」は,「事例」の再利用・転写に焦点を当てて,非言語メディアのデザイン支援評価基盤に取り組むものとして,2002年に提案,採択された.2003年から,5年間のセッションの実施,サバイバルを果たし,今回,卒業となった.この間,「事例」の再利用・転写の技術,アプリケーションに関するテーマを中心に,メディア記述の定式化,「事例」参照デザインの社会インフラストラクチャ構成,評価手法を扱った38件の研究発表がなされ,2006年には,本チャレンジの提案者の一人平田圭二(NTT)の発表が本学会の全国大会優秀賞に選ばれた.本チャレンジ「事例に基づくデザイン支援と評価基盤の構築」が無事卒業となったことで,記念行事を執り行おうというお話がもち上がり,2008年10月4日に2名のゲストディスヵッサント西田豊明氏(京都大学),諏訪正樹氏(慶應義塾大学)をお迎えして,関西学院大学梅田キャンパスで座談会を執り行うこととなった.本稿では,その模様について報告する.

  • カルチュラル・スタディーズの視点から
    有元 健
    スポーツ社会学研究
    2003年 11 巻 33-45,149
    発行日: 2003/03/21
    公開日: 2011/05/30
    ジャーナル フリー
    本稿は、「フーリガニズム」以降のカルチュラル・スタディーズにおけるサッカー研究が、サッカーと集合的アイデンティティとの関係をどのように考察しているかを概観し、そうした問題意識が西洋のクラブチームだけでなく日本におけるナショナルチームについても重要な分析の視点を提供することを論じる。レスター派を中心とするフーリガン研究との論争からカルチュラル・スタディーズのサッカー研究は、特に労働者階級のファンたちが文化的アイデンティティを構築するときの媒介としてサッカーを捉えてきた。そして彼らは、サッカーが一次的なカーニバレスクをファンに提供し、またそこで育まれる文化が資本主義社会や管理社会の対抗文化になりうるとした。カルチュラル・スタディーズはそのようなファンの自己同一化のあり方を、ブロンバーガーの「集合的イマジナリー」という概念によって説明した。これはプレースタイルが核となってファンの人々が心に抱き、それに同一化する「わがチーム」のイメージである。しかし、そうした「わがチーム」への自己同一化は、同時に複雑な人種的・国民的な包括と排除のプロセスを含んだ節合形態として認識されなければならない。つまり「集合的イマジナリー」にはすでに特定の人種的・国民的枠組みが書き込まれているのである。カルチュラル・スタディーズのサッカー研究が提示したこの視点は、日本の社会状況を分析するときにも有効である。2002年ワールドカップにおけるナショナルチームを表象するメディアは自己や他者に対するステレオタイプ化されたイメージを流通させたが、この視点にしたがえば、それによって身体的・人種的に特定化され固定化された「日本人であること」の集合的イマジナリーが構築され、ある特定の身体図式が「日本人であること」としてファン (日本国民) の文化的アイデンティティ形成に関与したのではないかと考えられる。
  • 宮地 朝子, 北村 雅則, 加藤 淳, 石川 美紀子, 加藤 良徳, 東 弘子
    自然言語処理
    2007年 14 巻 3 号 17-38
    発行日: 2007/04/10
    公開日: 2011/03/01
    ジャーナル フリー
    「です・ます」は, 丁寧語としての用法のみならず場面に応じてさまざまな感情・態度や役割の演出などの表示となる.これは「です・ます」が持つ「話手と聞手の心的距離の表示」という本質と, 伝達場面における話手/聞手のあり方とその関係の変化によつて生じるものと考えられる.本稿では「です・ます」をはじめ聞手を必須とする言語形式を, コンテクストとは独立して話手/聞手の〈共在〉の場を作り出す「共在マーカー」と位置づけ, コンテクストにおける聞手の条件による「共在性」と組み合わせることで伝達場面の構造をモデル化した.コミュニケーションのプロトタイプとしての〈共在〉の場では, 「です.ます」の本質的な機能が働き心的距離「遠」の表示となる.これに対して〈非共在〉の場では, 典型的には「です.ます」は出現しない.しかし, 〈非共在〉の場合でも共在マーカーが使用されると話手のストラテジーとして疑似的な〈共在〉の場が作り出される.この場合, 共在マーカーとしての役割が前面に出ることによって聞手が顕在化し, 話手/聞手の関係が生じて「親.近」のニュアンスが生まれる.「です・ます」が表す「やさしい」「わかりやすい」「仲間意識」などの「親.近」の感情・態度は〈非共在〉を〈共在〉にする共在マーカーの役割によって, 「卑下」「皮肉」といった「疎・遠」の感情.態度は〈共在〉での心的距離の操作による話手/聞手の関係変化によって説明できる.
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