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クエリ検索: "キネマ旬報"
469件中 1-20の結果を表示しています
  • (日本映像学会第二回大会研究発表)
    田島 良一
    季刊映像
    1977年 6 巻 24-37,62
    発行日: 1977/06/10
    公開日: 2019/07/10
    ジャーナル フリー

     Critics like Hideo Tsumura, Akira Iwasaki and Jun Izawa suggest that the works of Kenji Mizoguchi have an affinity with the literary works of Kafu Nagai. Kaneto Shindo and Jun-ichiro Tomoda maintain in an article that Mizoguchi was, to some extent, influenced by Kafu Nagai. However, nobody has ever studied their relationship closely. It has been generally understood that Mizoguchi, in producing ‘Naniwa Erezi’ (Osaka Elegy) 1936, imitated ‘Mieko’, a story by Saburo Okada. Later Yoshikata Yoda, one of his closest colleagues, proclaims that Mizoguchi imitated ‘Tsuyu-no Atosaki’, a story by Nagai, as well as ‘Mieko’. Actually we find that a sequence in ‘Gion-no Shimai’ (Sisters of the Gion) 1936, is based on a scene in ‘Tsuyu-no Atosaki’. A close study gives us an evidence that the two works of Mizoguchi are influenced by ‘Tsuyu-no Atosaki’ in terms of their purpose, backgrounds and methods. The style Mizoguchi adopted in creating films did not change for the remaining 20 years until his death in 1956 when his last film, ‘Akasen Chitai’ was presented, which means Mizoguchi was under the influence of Kafu throughout the latter half of his life as a film director.

  • 外国映画の日本語字幕あるいは「日本版」生成をめぐる考察
    北田 理惠
    映画研究
    2009年 4 巻 4-21
    発行日: 2009年
    公開日: 2019/12/02
    ジャーナル オープンアクセス
  • 鷲谷 花
    映像学
    2025年 113 巻 135-155
    発行日: 2025/02/25
    公開日: 2025/03/25
    ジャーナル フリー

    日本映画史上初の女性映画監督と認められてきた坂根田鶴子が、第一回監督作品『初姿』(第一映画、1936年)を発表する前年にあたる1935年9月、太秦発声所属の女性監督・笹木一子が、京都市観光課が太秦発声に製作を委託した観光映画『京の四季 夏の巻』を監督し、同作は日活系映画館でも併映短編として公開された。長編劇映画ではなく短編観光映画ではあっても、映画館で一般公開されたフィルムを最初に監督した女性として、笹木一子もまた、「日本初の女性映画監督」と呼ばれる資格をもつといえるだろう。『京の四季 夏の巻』の完成・公開から程なくして、笹木一子は映画制作現場を離れたが、戦後に「紀志一子」の名でスクリプターとして復帰し、1965年には「佐々木一子」の名で宮西プロ(大宝映画)が製作した成人映画『快楽の終宴』の監督を務めた。本稿は、演出・監督業から女性を構造的に排除してきた日本映画界で、戦前と戦後に複数の監督作品を発表したにもかかわらず、従来の日本映画史記述にその名が記されることがなかった、知られざるもうひとりの女性映画監督のパイオニア・笹木/紀志/佐々木一子の活動の軌跡を、新聞及び雑誌記事の調査を中心に掘り起こしていく。さらに、笹木一子のキャリアの検証を通じて、日本映画界における女性の監督業への進出を促しつつ、一方では監督としてのキャリアの持続的な発展を阻んできた諸条件についても考察を試みる。

  • 冨岡 美栄子, 森野 晶人
    日本デザイン学会研究発表大会概要集
    2013年 60 巻 7B-06
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/06/20
    会議録・要旨集 フリー
    雑誌は時代の“今”を映して積極的に表現し発信している。過去の日本において、雑誌にみられるデザインや文字・タイポグラフィが時代とともにどう変化してきたか、いかに時代の声に応えてきたのか。これらを文化的・社会的背景と比較・照会することで、日本におけるデザインの変遷や当時における役割、時代を反映する力について明らかにできると考える。本研究では、現在でも発行が続いている長寿の雑誌
    キネマ旬報
    に焦点をおき、創刊から第二次世界大戦までに発行された
    キネマ旬報
    と時代との関連性を明らかにすることを目的とし、
    キネマ旬報
    の当時における立ち位置から探っていく。
  • 『沓掛時次郎』と 1929 年の日本映画史
    羽鳥 隆英
    映画研究
    2011年 6 巻 4-19
    発行日: 2011年
    公開日: 2019/08/01
    ジャーナル オープンアクセス
  • 藤巻 喜代子, 白楽 ロックビル
    年次大会講演要旨集
    2003年 18 巻 1F04
    発行日: 2003/11/07
    公開日: 2018/01/30
    会議録・要旨集 フリー
  • ノエル・バーチの溝口健二論批判
    佐伯 知紀
    映像学
    1983年 27 巻 21-33
    発行日: 1983/09/30
    公開日: 2017/04/25
    ジャーナル フリー
  • 及川 健右, 鎌倉 稔成
    日本計算機統計学会シンポジウム論文集
    2009年 23 巻
    発行日: 2009/11/07
    公開日: 2017/07/15
    会議録・要旨集 フリー
  • 『細雪』におけるリメイク/翻案の過程
    森 年恵
    映画研究
    2020年 15 巻 28-50
    発行日: 2020/12/05
    公開日: 2022/07/04
    ジャーナル オープンアクセス
    本論は、阿部豊監督作品(1950年、新東宝)、島耕二監督作品(1959年、大映)、市川崑監督作品(1983年、東宝)の三作の『細雪』を、『アダプテーションの理論』(ハッチオン)、『映画リメイク』(Verevis)による「リメイク/翻案」の概念拡大を参照しつつ検討することを目的とする。阿部作品は原作への忠実を旨としながら妙子に焦点を当て、島作品は阿部作品の基本構造を採用してメロドラマ化しつつ雪子と妙子にトラウマの主題を導入し、市川作品は原作からの新たな翻案を試みて貞之助の雪子への欲望の描写と四姉妹の描き分けを行った。三作の製作の中に、「リメイク/翻案」の両者を含む『細雪』=「美しい四姉妹の物語」の図式の生成過程を見ることができる。「リメイク」および「翻案」の概念は、近年の概念拡大によって、それぞれを「メディア内」「メディア間」の現象として理解することが困難になっているが、産業、受容の側面も含めた三作の検討の結果、多様な現象の総合的な運動として見る 「リメイク」と翻案者の動機を含む製作過程を重視する「翻案」という視点の相違が重要と結論づけられた。
  • 金井 秀介
    日本経営品質学会誌 オンライン
    2022年 7 巻 1 号 41-50
    発行日: 2022年
    公開日: 2022/01/15
    ジャーナル フリー
  • 澁谷 覚
    文化経済学
    2000年 2 巻 2 号 107-115
    発行日: 2000/09/30
    公開日: 2009/12/08
    ジャーナル フリー
    従来型のコミュニケーション・モデルを前提としていた従来の普及理論は、電子ネットワークの時代には修正を加える必要がある。本稿ではWebサイト上で展開された映画のマーケティングの事例を、Webサイトの構造、ネット上のコミュニケーション特性などの面から分析し、その普及プロセスを従来の普及モデルと比較した。結果としてWebサイト上のインタラクションがネット上でマスコミ的機能を果たす可能性などの知見を得た。
  • (日本映像学会第6回大会研究発表)
    山田 幸平
    季刊映像
    1981年 20 巻 32-38,63-62
    発行日: 1981/05/30
    公開日: 2019/07/31
    ジャーナル フリー

      Although Eisenstein's 'montage' has been treated almost exhaustively at home as well as abroad, these seems to be still open for further discussion a question how the artist's assimilation, with the insight of a genius, of Western and Russian arts conduced to the innovation of the film art at its early stage.

      The subject to be discussed here is on the process of his analysis and assimilation of literature, drama and fine arts which extends over the days of "The Battleship Potemkin" and those of "Ivan the Terrible". Two of his writings, " Montage of Cuttings" will be treated with particular attention to 'physical expression' in these arts, which seems to have had no little influence on Eisenstein in his invention of the visual devices so full of power.

  • 二〇〇〇―二〇一〇年の日本映画をめぐって
    及川 茜
    地域研究
    2013年 13 巻 2 号 108-125
    発行日: 2013年
    公開日: 2020/10/28
    ジャーナル フリー
  • 入倉 友紀
    映像学
    2022年 108 巻 144-163
    発行日: 2022/08/25
    公開日: 2022/09/25
    ジャーナル フリー

    1925年に女優として松竹に入社した松井千枝子は、同社のスターとして人気を博す一方で、自身の二つの主演作で原作脚色を務め、脚本家としても活動した。本論考では、松井のこのような異例の活躍が、なぜ初期の松竹蒲田において可能であったのか、またその中で彼女はどのように女優としてのペルソナを獲得し、そのイメージを活用しながら脚本家としてのキャリアを形成したかを論じる。

    第1節では、松井が在籍した松竹蒲田撮影所の体制に着目する。1924年に同撮影所の所長に就任した城戸四郎は、脚本部の充実を図ることで、若手が積極的に議論する場を作り上げた。また、松竹では新たな現代劇の製作を模索する一方で、従来の新派悲劇的題材も脈々と受け継がれ、松井はここに女優そして脚本家としての活躍の場を見出していく。第2節では、スター女優としての松井千枝子に着目する。彼女は「第二の栗島すみ子」として人気を確立し、運命に翻弄される可憐なヒロインを得意とした。同時に、高等女学校卒で様々な芸術に通じているという当時の映画女優としては珍しい教養の高さも注目され、独自のペルソナを形成していく。第3節では、脚本家としての松井の活動を追う。松井の死後編纂された遺稿集に収録された「シナリオ」の分析を通して、彼女の描いた物語は、新派悲劇的な題材が強く引き継がれたことを示すと同時に、松井独自の世界観が表現されていることを明らかにする。

  • 郷愁を伴った野性のエロティシズム
    小暮 修三
    映画研究
    2016年 11 巻 40-56
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/02/24
    ジャーナル オープンアクセス
  • 徐 玉
    映像学
    2023年 110 巻 38-58
    発行日: 2023/08/25
    公開日: 2023/09/25
    ジャーナル フリー

    本稿では、木下惠介の大作『香華』をとりあげ、木下研究においてこれまであまり目を向けられてこなかった母娘の関係を考察した。『香華』は有吉佐和子の同名小説の映画化作品であり、欲望のままに生きる母の郁代と、母に翻弄される娘の朋子との愛憎が全編を貫いている。

    まず、郁代という人物に注目し、木下の撮影スタイルの特徴である移動撮影とズームアップの連用が、郁代の「家」からの離脱と結びつけて使用されていることを明らかにした。また、「母性」に関する議論を援用しつつ、郁代が「母もの」映画の「規範的」で「脱性化」された母親像とは異なり、「母性」に束縛されない、特異な母親であることを確認した。続いて、木下の他の作品に見られる母子関係と照らし合わせながら、『香華』における母娘関係の特異性を検討した。回想形式やフラッシュバックを得意とする木下が、有吉佐和子の原作では朋子によって想起される対象である郁代に対して、そうした技法をあえて用いずに、確固とした身体と声を備えた母親として描いていることを指摘した。さらに、朋子の初潮の場面や、防空壕でほのめかされる母娘一体化、特に母娘で同じ墓に入ろうという朋子の意志といった、映画で新たに付け加えられた要素によって、母への愛の忘却を経た娘が母とふたたびつながるという母娘関係が出現し、そこに反家父長的で脱再生産的な側面が潜んでいることを論じた。

  • 加藤泰『幕末残酷物語』のテクスト分析
    北浦 寛之
    映画研究
    2007年 2 巻 23-44
    発行日: 2007年
    公開日: 2019/12/07
    ジャーナル オープンアクセス
  • ──映画「街の潜航艇」について──
    中沢 弥
    横光利一研究
    2018年 2018 巻 16 号 125-130
    発行日: 2018年
    公開日: 2022/03/27
    ジャーナル フリー
  • 闘争映像の政治性と60 年代テレビドキュメンタリーの表現
    洞ヶ瀨 真人
    マス・コミュニケーション研究
    2020年 96 巻 121-138
    発行日: 2020/01/31
    公開日: 2020/06/17
    ジャーナル フリー

    Based on J. Gaines’ discussion of “political mimesis,” this paper examines

    how Japanese television documentaries in the 60s handled the provocative

    power communicated by images of struggles arising from protest movements.

    Gaines’ theory is often mentioned as an independent documentary methodology

    that encourages viewers to take political action. In contrast, this paper focuses

    on TV documentaries’ specific treatment of provocative political mimesis

    among the various broadcasting circumstances. In this media environment, this

    type of biased approach was not easily allowed due to the existence of ethical

    regulations such as the “equal time” rule. Consequently, this prompted filmmakers

    of the time to create alternative methods for representing political images

    in their works. Through this argument, this paper aims to illustrate a historical

    change to the 60s documentary media environment under the emergence of

    television culture and a new way for documentaries to address political issues.

      This paper mostly addresses two themes. The first theme is related to a

    dispute concerning NHK documentaries that displayed protests over the Treaty

    of Mutual Cooperation and Security between the United States and Japan

    (known as the ANPO protests) in 1960. Foreshadowing Gaines’ argument, the

    disputers indeed confronted the provocation of these images to manage its

    impact within the broadcasting media environment. The second theme is

    related to the audio-visual methodologies that were used in a few TV documentaries

    with respect to such protest issues around that time. Introducing R. Williams’

    view of the history of media, which reveals a socio-technological shift in

    communication, this analysis investigates how far the documentary producers

    and their approaches inclined toward a broadcasting-style concept and method ology.

      The results of this analysis show that almost all of the TV documentaries

    that addressed protest issues were commonly produced in accordance with

    broadcasting circumstances that put more weight on information distribution

    than political agitation. However, these documentaries did not dispel political

    mimesis from their representation at all. They used it alternatively together

    with dexterous methodologies aimed at spontaneously fostering an understanding

    of social issues and political awareness inside the minds of the viewers.

  • 長谷 憲一郎
    映像学
    2024年 112 巻 81-102
    発行日: 2024/08/25
    公開日: 2024/09/25
    ジャーナル フリー

    1930年代前後の日本映画のトーキー移行期に、映画製作だけでなく、技術や産業、文化、芸術などあらゆる分野で、相当な混乱がもたらされた。そんななかで松竹製作の五所平之助監督『マダムと女房』(1931年)が、日本映画において初めて〈本格的トーキー〉として高い評価を受けたことは広く知られている。一方、日活は松竹に先んじてトーキーに着手したのにも拘らず、イーストフォン、ミナトーキー、P・C・L式のトーキーシステムを経て、ウェスタンエレクトリック式で3作目、実にトーキー19作目となる伊藤大輔監督『丹下左膳 第一篇』(1933年)まで、トーキーとして高い評価を得ることができず、松竹の後塵を拝す形となった。

    日活は、トーキーを製作し始めた1929年から、P・C・L式でトーキーを製作した1932年まで、16作品中15作品をアフレコ(後時録音)したが、そのほとんどは「未熟なトーキー」と烙印を押される結果となった。日活は、なぜトーキーの基本である同時録音ではなく、アフレコを採用し、結果的にうまくいかなかったのか。これにはアフレコを選択せざるを得ないトーキー移行期特有の事情があった。本稿は、トーキー初期に日活が主にアフレコでトーキーを製作した点に光を当て、技術的な見地から検証し、日本映画史における意義を明らかにする。

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