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クエリ検索: "マイケル・カーティス"
8件中 1-8の結果を表示しています
  • 『ハイ・シェラ』と1930年代ギャング映画サイクルの終焉
    長谷川 功一
    映画研究
    2009年 4 巻 42-57
    発行日: 2009年
    公開日: 2019/12/02
    ジャーナル オープンアクセス
  • *大林 宣彦
    日本映画学会大会報告集
    2018年 14 巻
    発行日: 2018/12/08
    公開日: 2024/03/25
    会議録・要旨集 オープンアクセス
  • 常石 史子
    映像学
    2024年 112 巻 35-40
    発行日: 2024/08/25
    公開日: 2024/09/25
    ジャーナル フリー
  • フランス保護領時代の遺産をめぐって
    荒又 美陽
    都市地理学
    2012年 7 巻 90-95
    発行日: 2012/03/15
    公開日: 2021/02/19
    ジャーナル フリー
  • 原田 麻衣
    映像学
    2022年 108 巻 164-182
    発行日: 2022/08/25
    公開日: 2022/09/25
    ジャーナル フリー

    フランソワ・トリュフォーのキャリアは映画と文学の横断について思考するところから始まった。批評家として論考「フランス映画のある種の傾向」を発表し、当時のアダプテーション作品を批判したトリュフォーは、その3年後に初監督作『あこがれ』でモーリス・ポンスによる『悪童たち』の翻案に挑戦する。そしてその1年後、論考「映画における文学の翻案」でレーモン・ラディゲの同名小説を原作としたクロード・オータン=ララ『肉体の悪魔』を取り上げ、改めてアダプテーションの問題にアプローチしている。これら二つの翻案論と『あこがれ』からわかるのは、トリュフォーが一人称回想小説の翻案に関心を持っていたということである。

    本稿では、『あこがれ』における奇妙な語り手——「一人称の特定できない語り手」——について、一人称回想形式の翻案という観点から考察する。まずは二つの翻案論を参照しながらトリュフォーの主張した「正当なアダプテーション」の内実を明らかにする(第1節)。次に文学と映画における回想する一人称の語り手について整理し、『あこがれ』での語り手の位置を確認する(第2節)。最後に、『あこがれ』では、特定できない語り手を置くことによって、小説に備わる「私たち」語りを可能にしていると論じる(第3節)。『あこがれ』でなされた文学作品の映画的変換を「語り」に注目して明らかにすることが本稿の目的である。

  • 『ジョニー・ベリンダ』(1948)における手話の役割
    玉田 健太
    映像学
    2017年 98 巻 48-67
    発行日: 2017/07/25
    公開日: 2017/09/13
    ジャーナル フリー

    【要旨】

    1948年のジーン・ネグレスコ監督によるハリウッド映画『ジョニー・ベリンダ』で、主役で聾唖のベリンダ・マクドナルドは⼀切言葉を話さない。この点において、メロドラマ映画や特に40年代女性映画の典型的な例として、本作はしばしば先行研究によって取り上げられてきた。しかし、本作の重要な主題のうちのひとつは、まさに言葉に他ならない手話をベリンダが習得するという点にある。そこで、本稿は手話が⾮言語的なメロドラマの⾝振りではなく、言葉そのものである点を議論の出発点とする。すると、他の40年代女性映画における男性医師の機能(ヒロインが自分では言語化できないトラウマや真実を言語化する)と、本作の医師ロバートの機能は異なることになる。それを踏まえ、主に裁判のシーンを言葉という観点から分析することを通じて、男性医師ロバートもベリンダと同じく、支配的な社会から疎外された人物であることを明らかにする。本作はエンディングで、ベリンダやロバートらマイナーな言葉を話すもの同士が結束し、支配的な社会に取り込まれることもなく、また逃げ出すのでもなく、そこから適度な距離を保った新たな社会を打ち立てようと試みている様を描いているのだ。最後に本稿は、エンディングの⼆面性を明らかにし、彼女らの試みが孕む不安と希望を指摘する。

  • 梅本 健司
    映像学
    2025年 113 巻 112-134
    発行日: 2025/02/25
    公開日: 2025/03/25
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    主人公に向けられていた関心がやがて他の登場人物たちへと移ってしまう、そうしたアイダ・ルピノの監督作に付き纏う奇妙な印象を監督第1作『望まれざる者』(1949年)の分析を通して解明することが本稿の目的である。

    ハリウッドのスター女優から自身が設立した独立プロダクションでカメラの裏側にまわったアイダ・ルピノは「未婚の母」の物語である『望まれざる者』をまず監督する。『望まれざる者』は主人公のフラッシュバックが物語のほとんどを占め、またいくつかの重要な場面では強烈に彼女の主観を表現するようなショットが用いられているため、しばしば女性の視点に重きを置いた映画として論じられてきた。しかしその一方で映画の随所で他の人物たちの苦悩や傷を、ときに主人公の事情以上に印象的に映し出してもいる。傷ついた登場人物たちは画面の背景に留まったり、さりげなく画面を行き交ったりするだけでは必ずしもなく、それによって主人公への関心はどこかルピノの意図を超えて混乱しているように見えるのだ。特定の登場人物に向けられていた関心が他へと移ってしまうこと自体は、ルピノ映画の特徴としても、弱点としても語られてきたが、これまで社会的な言説やジャンル研究の観点から、あるいは物語の内容の問題として言及されるに留まっている。ここでは仔細に作品を分析することで、それが映画特有の焦点化によるものであることを明らかにしたい。

  • メロディ、ガラス窓、ズームそして因果性のない暴力
    小野 智恵
    映画研究
    2011年 6 巻 38-61
    発行日: 2011年
    公開日: 2019/08/01
    ジャーナル オープンアクセス
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