1. はじめに
ラオスの首都
ヴィエ
ンチャンが位置する
ヴィエ
ンチャン平野は、山地が多いラオス国内のなかで稀少な平地稲作地帯として、また市場に近接した近郊農業地帯として国内外から注目されてきた。ここでは、1950年代にフランス政府の調査団員として始めて詳細な地誌を描いたCondominas(1959)、1981年に著された長谷川(1981)、そして2004年から調査をおこなっている発表者らの現地調査の結果にもとづいて、
ヴィエ
ンチャン近郊平野部における村落分布の変化と、その一因としての
ヴィエ
ンチャン近郊平野部への移住について述べる。
2. 村落分布の変化:1981-2005
1981年の集落地図(長谷川1981)によれば、このころ集落が密集しているのは
ヴィエ
ンチャン市街地と、ナーサイトーン郡を通って北に伸びる国道13号線沿い、およびメコン河が大きく湾曲する市街地南部である。
ヴィエ
ンチャンから北の国道13号線は西部山地の縁辺部に位置し、ここに分布する村落は山麓部の陸稲栽培、および13号線東側のナムグム川低湿地の水稲栽培をおこなっている。一方、メコン河南部湾曲地帯は古くから近郊野菜栽培地域として開拓されてきた地域である。この地域は1958年にフランスが行った土地測量調査の結果、農業開発対象地域に指定された(Condominas 1959)。タバコや園芸作物の大規模な農場がつくられ、タイ側から来た農業労働者も多く働いていた。
2005年に作成された集落分布図に現地調査で補足をし、1981年の集落分布図と対比させた結果、つぎのような傾向が見出された。新たな集落は、
ヴィエンチャン市街地のほかヴィエ
ンチャン市から東へ伸びる13号線沿い、北へ向かう15号線沿い、およびナムグム川沿いに多く分布している。古い開拓地であるメコン河湾曲部では、人口増加により分村した集落の集合がみられ、15号線沿い北部には、政府の指導による山地部からの移住により形成された村落がみられる。足達ら(2005)の調査では、近郊農村であるサイタニー郡の104村のうち23村が、1960年代集中的に空襲にあったシエンクワン県・ホアパン県からの移住者による集落であることが示されており、このなかには1981年以降に形成されたものもあることがわかった。
3.
ヴィエ
ンチャン近郊平野部への移住
ヴィエ
ンチャン近郊平野部への移住の要因について、3つの時期に分けて述べる。
(1)1960年代前半ごろから1973年まで
・かなり遠方からの移住が起こった。特にシエンクワン県・ホアパン(サムヌア)県など、北部からの移住が目立つ。この時期の移住は、戦争の影響でおこなわれたものである。
・1970年にナムグム・ダムの建設が始まった。ダムにより水没する場所に住んでいた人々は南側に移住することが必要となった。その時、政府は、ラーオ・スーン(「高地の人」、山地民)であるモンHmong族に対しても、平地への移住を促した。
(2)1973年から1990年代初めまで
・1973年の新政府樹立後に、政府は、戦争でばらばらになってしまった人々を集めて
ヴィエ
ンチャンの周辺に集落をつくらせるという方針をとった。人々は、
ヴィエ
ンチャン周辺の土地を開墾して水田を開いた。
・1970年代前半には、ラーオ・スーンの人々の山からの移住が始まった。ラーオ・スーンは、ラーオ・ルム(「低地の人」)が占有していた土地を借り、木を切って稲作用の焼畑をつくった。農業発展のための様々なプロジェクトも始まった。特に灌漑プロジェクトは重要である。プロジェクトの開始により、換金作物をつくることも可能となった。
(3)グローバリゼーション時代の開始から現在まで
1990年代に入ってから、地域全体の経済的・社会的な交流が始まった。首都の
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ンチャンは拡大した。家具、靴、縫製などの工場が、
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ンチャン周辺に建てられた。近郊の農村からそれらの工場へ働きに行く若者や労働者があらわれた。
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ンチャン近郊のサイタニー郡においては、1990年代半ば以降には、他郡に住んでいる親戚がサイタニー郡に移住してきた、そしてその親戚に土地を安く売った、という事例が多く見られる。
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