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クエリ検索: "一本松古墳"
8件中 1-8の結果を表示しています
  • 北川 亘
    電気設備学会誌
    2021年 41 巻 4 号 231-232
    発行日: 2021年
    公開日: 2021/04/10
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  • 精密工学会誌
    2016年 82 巻 9 号 807-808
    発行日: 2016/09/05
    公開日: 2016/09/05
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  • 栗山 一夫
    人類學雜誌
    1935年 50 巻 6 号 237-246
    発行日: 1935/06/15
    公開日: 2010/06/28
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  • 井上 義光
    日本考古学
    2004年 11 巻 18 号 159-170
    発行日: 2004/11/01
    公開日: 2009/02/16
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    巣山古墳は,奈良盆地西部に出現する古墳時代中期初頭の大型前方後円墳として知られ,馬見丘陵に築造された古墳群の盟主墳として注目されてきた。法的保護は戦前から始まり,昭和2年に史跡に指定され,昭和27年には特別史跡に指定されている。古墳の実態については近年まで本格的な調査も行われず,わずかに採取された埴輪類のほかには有用な資料もなかった。
    広陵町教育委員会では墳丘及び外堤の公有化を行い,現状保存に努めてきたが,周濠が灌漑用溜池として利用されているため,墳丘と外堤の裾が浸食され,墳丘第一段の埴輪列が露出した状況に至っていた。このため,平成12年度から環境整備と発掘調査を継続して行っている。その結果,墳丘,外堤,周濠について,その形状や,規模など様々な成果が得られた。墳丘完成に伴う祭祀,外堤上に靫形木製品を立て結界を張るなどの祭祀行為が確認された。前方部から周濠へ張り出す出島の上面には聖域を強調する石英の白石が敷き詰められ,祭儀場を区画する柵形埴輪で結界を張り,盾形埴輪でさらに聖域を明示し悪霊への恫喝,慰撫を行う。二重・三重に張られた結界の中には,様々な四面開放の家形埴輪が配置され,それらを取り囲むように威儀具である蓋形埴輪が置かれ,導水の祭りを表現した囲形埴輪が備えられていた。これらは被葬者が神霊となって住む常世の世界を,広く人々に見せるための仕掛けであったと考えられる。
    巣山古墳は,大王の墓域が佐紀から河内へ移動する古墳時代中期初頭に築かれた前方後円墳であり,今後の調査並びに埴輪の整理が進捗し,巣山古墳の実態が明らかになれば,古墳祭祀を考究する上で極めて重要な資料となる。
  • 史学雑誌
    1977年 86 巻 3 号 341-364
    発行日: 1977/03/20
    公開日: 2017/10/05
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  • 駿河西部域における6世紀から7世紀の古墳出土須恵器を事例として
    後藤 建一
    日本考古学
    2000年 7 巻 9 号 21-52
    発行日: 2000/05/15
    公開日: 2009/02/16
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    本稿は,東海屈指の後期古墳である賤機山古墳出土須恵器を基軸に駿河西部域古墳出土須恵器の分析を通じて,須恵器流通の側面から古墳相互の連関構造を明らかとする。そして,当該地域からも多く出土している東海有数の湖西窯産須恵器が,7世紀から8世紀前半にかけて東日本太平洋沿岸諸国に広域流通する過程を6世紀代より追尾し,その担った役割の位置付けを行う。
    これまで駿河西部域の6世紀代窯跡は,天神山窯と秋葉山窯のみが確認されているにすぎなかったが,賤機山古墳出土の百点あまりの須恵器胎土を観察すると,既存の窯の他に複数の須恵器胎土が検出された。これらの須恵器胎土は駿河西部域の古墳からも数多く認められ,個々に特徴ある器種も抽出できることから,複数の地域窯の存在が確実視されたのである。これら諸窯は,湖西窯産須恵器との共伴より6世紀前半に開窯し,6世紀末から7世紀初頭にかけて廃絶することが判明した。開窯後の地域諸窯は,古墳の増加とともに流通圏も拡大し,6世紀後半には飛び石状の流通形態や複数産地から構成される重層的な古墳供献須恵器群,特産品による遠隔地流通など,古墳相互の関連が緊密に強まって地域流通は成熟期を迎えるのである。
    その一方で,緊迫した朝鮮半島情勢を背景に,出自の異なる首長を横断した地域の一元化掌握を目指す賤機山古墳被葬者が,6世紀中頃に倭政権(欽明朝)より派遣される。しかし,強固な古墳被葬者らの相関関係に阻まれるとともに,成熟した地域流通とはいえ脆弱な共同体を生産基盤とするため,手工業生産物の確保は著しく安定を欠いたものであった。このため賤機山古墳被葬者にみる6世紀代の地域一元化の政治手法は,ごく限られた領域で貫徹されるに過ぎず限界を露とするが,7世紀以降の湖西窯に見られる流通手法によって克服される。すなわち,6世紀末から7世紀初頭に駿河西部域諸窯が一斉に営窯を停止すると同時に,当地域を含めた東海東部域の古墳出土須恵器は,湖西窯産須恵器によって一元化されてしまう。このような広域にわたる一連の現象は,後の律令体制へ繋がる倭政権(推古朝)の新たな政治施策の結果と見做すことができるのである。
  • 岩本 崇
    日本考古学
    2006年 13 巻 22 号 15-45
    発行日: 2006/11/01
    公開日: 2009/02/16
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    本稿の目的は,日本列島で出土する筒形銅器の製作技術を復原し,その検討結果をふまえたうえで分布や出土古墳の形態・規模,共伴資料にみる特徴などから,筒形銅器が列島において受容された背景を探ることにある。
    まずは,製品に残された鋳張り,湯周り不良,研磨状況などの製作痕跡をもとに,筒形銅器の鋳型構造を復原した。つぎに,目釘穴と透かしのあり方に反映された鋳型構造には,大きく3つの違いが存在することを明らかにした。そして,省力化や製品の仕上がりといった点を考慮したうえで,鋳型構造の差異が時間差を反映している可能性を述べ,これを古墳における筒形銅器の組み合わせと出土古墳の年代から検証した。また,筒形銅器には一定の法量のなかで形態にいくつかの規格が存在することも述べた。
    そして,製作技術にかかわる痕跡が韓半島の出土例と一部共通することを確認し,日韓で出土する筒形銅器がおおむね同一の生産体制下でうみだされたものと想定した。さらに,筒形銅器は一定程度の法量を保持しながら,製作の初期には多様なつくりわけがおこなわれ,その後ある程度規格的な生産がすすめられたが,最後にはその規格が崩壊するという生産状況を復原した。
    そのうえで,筒形銅器の分布や出土古墳の諸要素を時期ごとに検討し,列島における筒形銅器の分布に明確な中心を特定しにくいこと,出土古墳の形態や規模にばらつきがあることなどを指摘した。そして,筒形銅器の流通が倭王権による分配ではなく,対韓半島交渉を背景とした地域間交流の強化にともなって各地にもたらされたものであると結論づけた。
  • 史学雑誌
    1990年 99 巻 7 号 1313-1359
    発行日: 1990/07/20
    公開日: 2017/11/29
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