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クエリ検索: "中野新治"
5件中 1-5の結果を表示しています
  • 平澤 信一
    日本近代文学
    2019年 100 巻 147
    発行日: 2019/05/15
    公開日: 2020/05/15
    ジャーナル フリー
  • 川島 秀一
    山梨英和大学紀要
    2011年 10 巻 33-48
    発行日: 2011年
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    周知のように、『注文の多い料理店』は、賢治文学の巻頭を飾る童話集であり、この「どんぐりと山猫」はその冒頭に配される物語です。もじどおり、賢治文学の出発を告げるテクスト。その〈広告文〉では、「山猫拝と書いたおかしな葉書が来たので、こどもが山の風の中へ出かけて行くはなし。必ず比較をされねばならないいまの学童たちの内奥からの反響です」と記されます。この《おかし》という言葉をめぐって、その招待の理由である〈裁判〉の中から立ちあらわれてくる《意味》の陥穽と、その世界のなかに漂い浮遊しはじめる〈いま〉の〈こども〉たち。変貌しはじめる世界を前に、自意識の翳りをおびはじめた主人公の一郎は、まさに〈おとな〉への境目に立っています。作品は、なによりも〈いのち〉の始原をめぐる〈問い〉をひそめつつ、《意味》に憑かれたようにして生きる《空虚な身体》を顕在化させ、〈いま〉という時間を徹底的に批判し、また相対化しています。本稿は、これら問題の分析とあわせて、賢治文学における「どんぐりと山猫」の意味についても考察しようとするものです。
  • 横山 信幸
    日本文学
    2016年 65 巻 1 号 60-70
    発行日: 2016/01/10
    公開日: 2021/01/29
    ジャーナル フリー

    宮沢賢治「やまなし」は、昭和四六年(一九七一年)に小学校国語教科書教材として採用された。一方、研究者による作品の解釈・研究も持続して行われてきた。この間、わが国の国語教育は、経験主義的国語教育から言語能力重視(昭和五二年版)の教育へと転換、さらに現在の「経済のグローバル化に対応できる人材の育成」へと変わってきている。子どもと教師と研究者は互いにどのように関わり合い、「やまなし」に何を読もうとしてきたのか。

  • 川島 秀一
    山梨英和大学紀要
    2009年 8 巻 1-19
    発行日: 2009年
    公開日: 2020/07/20
    ジャーナル フリー
    「ポラーノの広場」と題されたこのテクストは、語られることになる〈あの年のイーハトーヴォの五月から十月〉の〈話〉を中にはさんで、前後の〈エピローグ〉と〈プロローグ〉がその〈話〉の《時制》を明確に、また方法的に縁どっています。〈主人公〉でもあり、またその〈話〉の〈記述者〉でもある〈わたくし=キュースト〉が、その〈七年〉前の話を思い出し、語り出そうとする起点となったのが、どこからともなく届けられた、《ポラーノの広場》の《うた》が記された〈一つの楽譜〉でした。〈わたくし〉は、その創り手として一人の少年を想起するのですが、今はそれも定かではありません。いわばその《うた》は〈不在〉のある〈場所〉と〈時間〉から届けられたもの。《ほんとうのポラーノの広場》とは何か--作品はその〈わたくし〉が生きている《いま=現在》という時間を暗く冷徹に縁どりつつ、そのものを幻視するかのように《不在の物語》が紡がれます。本稿は、そのようにして方法化された語りの構造を分析しつつ、そこに顕在化される《物語》の意味を解明せんとするものです。
  • 佐藤 和喜
    日本文学
    1997年 46 巻 12 号 1-11
    発行日: 1997/12/10
    公開日: 2017/08/01
    ジャーナル フリー
    古事記歌謡には、景の表現と心の表現との関係が、前者は人の立場の表現であり、後者はその人の立場から神の立場に転位しての表現となっている場合が少なくない。そのため、心の表現は激情的な表現となるという傾向を強く持っている。一方、この古事記歌謡に対応する日本書紀歌謡では、景の表現が心の表現に連続的で、一首は人の立場に終始して、激情性の低いものとなっていることが多い。本稿は記歌謡と紀歌謡の比較を通して、記歌謡の激情性を明らかにしようとするものである。
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