清代、「田単」「方単」と呼ばれる地券が、所有の証拠として土地の所有者に発給されることがあったが、この事実は、民間に対して無関心であったという当時の公権力像や、個人間の取引において公権力の保証に絶対性がおかれないという民間社会像に対して、再考の余地を与えるものであろう。本稿は、咸豊五(1855)年行われた「清糧」の際に「執業田単」(「田単」)なる地券を発給した上海県に焦点を当て、同県の土地管理制度の理念と実際を明らかにする。
咸豊五年に発給された田単は、土地の所有の保証、所有の移転についての公証、田賦(土地税)負担者の表示の三機能を有しており、田単に書かれた名義や土地面積は、所有権の移転の際に、県署で魚鱗冊(土地台帳)の情報とともに書き換えられることになっていた。すなわち、田単は、土地の来歴の証明という、私契が持つ役割を代替するように設計されていた。清代の公権力が、通説のごとく民間における土地所有者の把握に消極的であったかは、再考の余地があろう。
しかし、ニセ田単が流通したことで官民における田単への信頼は低く、また、県署の胥吏は流通する田単の真贋の見分けができなかったことなどから、本来行われるべき田単への新情報の追記が行われなかった。本来田単が持つはずであった三機能を担ったのは、田単の真贋の鑑定能力を持ち、田単への土地面積への追記を行った地保であった。地保は、土地売買に常に立ち会うことで、坐落・面積・原所有者名・田賦負担者名・実際の所有者を把握し、田単の運用理念を表面的、部分的に実現させた。上海県の構想は失敗に終わったが、民間における土地所有・売買の慣習に、地保による保証という要素を付加する結果となった。
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