1.はじめに
近年,国政・地方政治における女性の進出傾向が強まっている.例えば,生活クラブ生協やこれを母体とする生活者ネットワーク(以下ネット)の「代理人運動」は,大都市とその郊外を中心に展開し,ネット参加者を地方議会へ送りこんでいる.
こうした郊外で展開してきた生活クラブ生協に関する事例研究は社会学に多い.一方で,生活クラブ生協の活動には課題も多い.渡辺(2002)はネットに参加する人たちのライフスタイル・社会観・関心領域などの調査結果から,参加者の「異質な,自立できない他者に対する『想像力』『共感』」の不足を危惧し,また,ネットが関心を生活領域に限定することにより,「政治社会においても性別役割規範を形成する危険性」を指摘する.
その一方で,こうした郊外の女性による運動の中で,生活改善・他者への共感・住民自治など,広範な課題を追求したものもあった.それが,東京都田無市・
保谷市
(現西東京市)で展開した「どんぐり会」の活動である.
本研究では,以下の2点を目的とする.1)どんぐり会の39年の活動を記録すること,2)自治体改革運動を,なぜ女性たちがしなくてはならなかったのか,また,なぜ田無市・
保谷市
でこうした運動が発展し,解散に追い込まれたのか,その理由を場所の観点から明らかにすること,である.
2.どんぐり会の歴史
1957年に10人ほどの主婦たちで結成されたどんぐり会は,まず,し尿処理場建設運動など,主婦が日々直面している問題への運動を開始した.また,PTAの民主化運動を始め,私費負担の解消などを実現させた.
発足5年目(1962年)からは,新聞『どんぐり』(2,500部)を毎月発行し,1969年からは,
保谷市
にも活動を広げた.同会は,上記の運動を達成するにつれ,運動の重点を社会教育の充実に置くようになった.そして,オイル・ショック後は,環境問題の啓蒙と住民参加の推進が運動の中心となった.しかし,同会は,会員の高齢化により,1996年の『どんぐり』409号の発行をもって解散した.
3.どんぐり会の活動の特徴と限界
どんぐり会は,田無市・
保谷市
の10人ほどの主婦たちによる手弁当の運動であり,議会や議員との関わりはなかった.会員は,新聞を一般市民だけでなく,両市役所内で,職員や議員にも配布した.聞取り調査によれば,両市議会での一般質問が,同会の新聞記事をヒントに行われることもあり,両市の管理職は,議会対策のために新聞を活用した.このように,『どんぐり』は,市民・議会・市役所をある程度結び付ける役割を果たした.しかし,同紙は,常に5人程度の中心人物により編集され,彼女らの後継者は育たなかった.
4.田無市・
保谷市
という場所とどんぐり会
第2次大戦中,田無町には,数多くの軍需工場の社宅に町外出身者が移り住んだ(橋本2003).戦後,同町における住民運動は,こうした旧社宅の住民による生活改善運動から始まった.どんぐり会も,旧社宅の主婦たちによって結成された.
発足当初,同会は,農村宿場町の名残が残っていた田無町の旧住民と対立しながら,旧社宅を中心に支持を広げた.加えて,田無町の人口急増に伴い,町外出身者が急激に増え,同会への支持はさらに広がった.運動の成果によって住民福祉が向上すると,同会の活動の中心は,住民参加の追求へと移った.
しかし,田無市の新住民の多くは政治に関心を持たず,転勤による流動率も高かった.したがって,同会の中心人物の後継者は育たなかった.また,同会の女性問題への取り組みはそれほど熱心ではなかった.このように,一世代前の女性たちによるどんぐり会の運動は,20世紀末に限界をみたが,戦後の田無市・
保谷市
の政治に大きな影響を及ぼした運動であった.
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