『源氏物語』宇治十帖後半部では、しばしば指摘されるとおり、女房や家人が、匂宮や浮舟の背後で暗躍する。
夕顔巻や末摘花巻など、女房や家人に焦点があてられる巻々は、正編にも見いだせる。だが、女房や家人が複数の家々を渡り歩く「所属不明」の存在であることは、宇治十帖後半部においてこそ活写される。女房や家人が、家と人物の自己完結を阻むこと――『源氏物語』は、全編の締めくくりにおいて、そのことを浮かびあがらせる。
女房や家人はまた、物語内で進行する出来事について論評し、今後のなりゆきに想像をめぐらせる。そのことをつうじて、テクスト内で起こりつつある事件と、過去の史実や他のテクストが結びつけられる。女房や家人は、テクストの自己完結をも阻むのだ。宇治十帖後半部はこの側面も、克明に語りとっている。
物語内容を一面的に追うだけでは、王朝物語は読み解けない。物語内の出来事と、それにかかわる「別の審級」を、重ねあわせるような迫り方をしなくてはならない――『源氏物語』はそのことを、全編の最後に主張したかったのではないか。だとすれば『源氏物語』は、モダニズム芸術が直面していたのと、通底する問題を抱えていたことになる。
一見した際にあらわれる意味と、その意味を別ものに換えてしまう「深層」を、モダニズム芸術は合わせもつ。「近代」と、「近代」によって排除されたものの葛藤を具現するための必然である。精神分析が「無意識」の概念を召喚したのも、モダニズム芸術と同じ課題に向きあおうとしたからに他ならない。
本発表では、モダニズム芸術に通じる構えを、なぜ『源氏物語』が必要としたのかについて考察する。グローバル化への反動として、ローカルなものへの固着が生じている現在、文学と文学研究がいかにあるべきかを、最終的には提案したい。
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