考古学遺跡の井戸遺構の深さによって、地下水位の歴史的変化を復元する手法を検討している。前報(阿子島,2003日本地理学会春)では、山形市馬見ケ崎川扇状地全般の地下水位の歴史的変化ならびに馬見ケ崎川扇状地の扇端部の城南1丁目遺跡の井戸遺構の深さと時代の関係について述べた。
城南町1丁目・双葉町遺跡の地形的位置は、扇状地面を手指にたとえれば指の付け根付近の指(自然堤防・河道)とみずかき(自然堤防から後背低地)にあたる。二の丸濠の水源は自然湧水であった。両発掘区の中に3条以上の埋没河道が検出されている。
双葉町遺跡は城南1丁目遺跡に隣接する遺跡であり、発掘面積約74,000m
2、山形城三の丸城内の上級武士団の屋敷跡を主とし、古墳時代前期と奈良平安時代の竪穴式住居、鎌倉時代から南北朝時代の方形館(80×50m)、近代までの複合遺跡である(図1a)。
ここでの井戸遺跡総数は204
基
、 構造は石組み184、木組み34(9C 3;16C 1)、 素堀り16であった。 半数の時代は不明であった。それぞれの年代は遺物年代による埋没年代である。掘り方の埋め土の年代を決める遺物はなかった。決定された時代の幅はさまざまであるが、近世初期の井戸遺構を遺構との関わりでI_から_IVに細分できたものがある。
時代ごとの井戸数は以下のようになった;
奈良平安時代(素掘り)5
基
、9C(木組み 3; 素掘り1
基
、)、
12Cから13C 1
基
、 13C 4
基
、
16C 1
基
(木組み)、 17C(細分できず)23
基
、
17C I期(1590から1620)以降17C代 2
基
、
17C II期(1630から1640)以降17C代 9
基
、
17C III期(1650から1670)以降17C代 23
基
、
17C IV期(1680から1700)以降17C代 12
基
、
近世(細分できず) 23
基
、 18C 1
基
(石組み)、
近代 1
基
、 不明 94
基
(ほとんどが石組み)。
・井戸の深さは、滞水層の深さ、微地形、構造(技術)、年代で異なるはずであり、小範囲ごとに検討する必要がある。
・旧地表面高度と井戸深さの関係から、上流側(東側)で浅く、西側で深いという傾向がある。
・直接の切り合い関係は11例あり、古い井戸より新しい井戸の深さが深くなるもの7例、ほぼ等しいもの4例である。
・近い範囲で井戸深さと年代の関係をみると、たとえば南西部分(17区付近 図1b)では、9C(SE2008)98cm = 奈良平安時代(SE2009)90cm = 13C(SE2012) 90cm → 16C(SE2006) 150cm ←17C(SE2001) 126cm →17CのII期(SE2013) 142cm→ 17CのIII期(SE2004) 183cm←近世?(時代は要検討 SE2015) 93cm→ 近世(SE2014) 最大199cmと、ばらつきもあるが年代が新しい井戸ほど深いという傾向がある。 (←は逆転を示す。)
・総じて、17C前半(II期またはIII期)までに地下水位低があったといえそうである。
・この頃の地下水位の低下をもたらした原因は、作業仮説としては、城郭形成にともなう三の丸濠の掘削、扇頂部での馬見ケ崎川のつけかえ(城下町の洪水を防ぐため北へ遠ざけた)などの影響が予想される。
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