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クエリ検索: "堀雅昭"
5件中 1-5の結果を表示しています
  • 山口県宇部市を事例として
    河野 泰明, 大村 謙二郎, 有田 智一, 藤井 さやか
    都市計画論文集
    2009年 44.3 巻 847-852
    発行日: 2009/10/25
    公開日: 2017/01/01
    ジャーナル オープンアクセス
    本研究では、企業城下町における中核企業の公共的役割の変化と中核企業と行政の関係性およびそれに伴う企業城下町の市街地構造の変化を明らかにすることを目的とする。本研究では、宇部興産の社史や宇部市史の資料、宇部興産内部資料や宇部市議会録による文献調査および宇部興産等の関係機関へのヒアリング等で調査を進めた。その結果、中核企業が市街地形成に果たした役割は以下のようにまとめることが出来る。企業発足からバブル崩壊までは中核企業が市街地形成を主導してきたが、バブル崩壊後には企業経営の悪化から不動産資産処分により行政との矛盾が生じている。以上より、宇部市において宇部興産の公共的役割は徐々に低下してきているが市街地形成に与える影響は少なくない。そのため行政との新たなるパートナーシプが市街地形成の取り組みが必要とされている。
  • ある在日朝鮮人との対位法的記述を通して
    真鍋 祐子
    文化人類学
    2022年 87 巻 2 号 243-263
    発行日: 2022/09/30
    公開日: 2023/02/16
    ジャーナル フリー

    本稿は、我がこととして向き合うべき切実な主題をもたず、半生を振り返っても「語るほどのことがない」、非当事者としての立場から記述するオートエスノグラフィ(以下、AE)である。サイードによる対位法的なテクスト読解法を援用し、私と同郷で同年代かつ、各々の立場と方法で韓国民主化運動という共通の課題に向き合ってきた在日朝鮮人・金利明のライフヒストリーを取り上げる。日本の植民主義が生み出したマイノリティ/マジョリティの関係性において、対位法的にAEを記述する過程を通し、自らの来歴に「帝国主義のプロセス」が埋め込まれていることをあぶり出そうとした。この対位法的なAEが明らかにしたことは、まず、第一次的ニーズの帰属先である「当事者」の物語を通して「私」の取るに足らない日常の記憶が掘り起こされること。次に、その記憶を忘却することで「語るほどのことがない」と沈黙してきたこと自体、実は非当事者=マジョリティの特権であったこと。また「私」における「魂の脱植民化」は、「位置的主体化」を経たマイノリティのそれと差異化され、各々が歩んできたプロセスには動態的/漸進的という相違が明確に示された。意識化への転換点ではともにエピファニーが経験されるが、「私」にあっては調査対象に学びながら、同時に「作品を書く過程自体」の中で自身の植民地性と格闘する中でしか、表象する立場としての自らの特権性を学び捨てることができなかったからである。

  • ―伝記的事実に添って―
    三木 紀人
    中世文学
    2013年 58 巻 9-22
    発行日: 2013年
    公開日: 2018/02/09
    ジャーナル フリー
  • 佐久間 美羊
    オーストラリア研究
    2007年 20 巻 76-92
    発行日: 2007/03/25
    公開日: 2017/05/10
    ジャーナル フリー
    This paper examines the novel, No Time to Look Back (1950), written by Leslie Greener, an Australian ex-Prisoner-of-War (POW) in Changi. By analysing his representation of the old enemy, the Japanese, and the POW themselves along with the atrocities of both sides and the meaning of the title, we can find that the novel is future-oriented and filled with humanity. At the same time, however, it faces the reality of POW life in the predicament and the foolishness of human beings. Due to this two-sidedness, No Time to Look Back was manipulated for each country's own sake: being discarded in Australia as deviation from the national memory and on the other hand being utilised in Japan for celebrating Australia-Japan friendship in spite of the war. This novel is worthy of a revaluation in order to rethink the past and future of the Australia- Japan relationship.
  • [記載なし]
    史学雑誌
    2011年 120 巻 7 号 1335-1298
    発行日: 2011/07/20
    公開日: 2017/12/01
    ジャーナル フリー
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