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クエリ検索: "天皇"
27,174件中 1-20の結果を表示しています
  • 天皇
    陛下
    日本學士院紀要
    2007年 62 巻 2 号 127-140
    発行日: 2007年
    公開日: 2017/04/05
    ジャーナル フリー
  • 國本 学史
    日本色彩学会誌
    2020年 44 巻 3+ 号 200-
    発行日: 2020/05/01
    公開日: 2021/09/06
    ジャーナル フリー

     黄櫨染は令和のお代替わりに際して,

    天皇
    が身につける袍・束帯の色と見なされた.しかし,即位礼において
    天皇
    が黄櫨染袍・束帯を身に付けるのは,明治
    天皇
    以降である.孝明
    天皇
    の代までは,即位礼には冕服を
    天皇
    は着用していた.黄櫨染は,櫨を用いた染色とされる.位色がもたらされた中国の影響が大きいと考えられるが,中国の櫨と日本の櫨は文字が同じながら異なる植物と推測され,両国の櫨材染色を比較しても同色ではない.平安時代の『延喜式』の記録では,黄櫨と蘇芳の交染であるとされたが,これは中国皇帝の袍・衫の赭黄や赤黄の色に似せるためとも考えられる.中国の服色制度の受容に際して,黄櫨染以外は唐の常服の色を日本の礼服(後,束帯)に適用している.しかし,中国皇帝の常服の赭黄・赤黄の色は,日本の律令制度における「衣服令」の
    天皇
    の礼服位色としては適用されず,後代に規定されるようになる.
    天皇
    が神事等に着用する帛衣・斎服の「白」,「麹塵の青」,「赤白橡」,などの
    天皇
    位色も生じたが,黄櫨染のみ
    天皇
    に絶対的に限定されていた.そして黄櫨染は,近代の即位礼における
    天皇
    の服色として規定されることで,新たな意味性を付加されている.

  • 嶋田 陽一
    土木学会論文集
    2023年 79 巻 18 号 論文ID: 23-18055
    発行日: 2023年
    公開日: 2023/10/04
    ジャーナル フリー

     黒潮続流によって東北地方太平洋側から流された漂流物は

    天皇
    海山列に妨げられるか,あるいは,東向きの海上風により東へ移動する傾向を示す.一方,
    天皇
    海山列周辺の海上風が南向きの傾向であれば,漂流物は南下し
    天皇
    海山列から離れ,西向きの海上風により日本方面へ移動する.しかし,漂流物が日本方面へ移動する間に北向きの海上風が続くと,漂流物は北上し黒潮続流域に戻る.漂流物は
    天皇海山列を越えなくても天皇
    海山列西方面において,海流,海上風及び
    天皇
    海山列によって概ね1年以上の大規模な周回移動をすることが観測によって初めて明らかになった.

  • 皇室にみる洋風から和風への回帰とその背景
    小沢 朝江, 水沼 淑子
    住宅総合研究財団研究年報
    2003年 29 巻 121-132
    発行日: 2003年
    公開日: 2018/05/01
    ジャーナル オープンアクセス
     本研究は,明治期における明治
    天皇
    巡幸,皇太子(大正
    天皇
    )巡啓に用いられた巡幸施設の建築とその室礼について検討した。明治
    天皇
    の巡幸では和風建築が圧倒的に多く,洋風建築の場合も内部に畳を敷きトコを設けるなど,和風建築の規範を用いて
    天皇
    の座所という「格」が表現された。また,
    天皇
    が使用する椅子・テーブル等は持参し、置畳・御簾など和風の調度を用いて玉座が設えられた。一方,明治後期の皇太子巡啓では,御座所以外に寝室や謁見所が別室で設けられ,各室に多種多様の調度が設えられるなど,生活空間としての「質」が重視された。また,椅子・テーブル掛・屏風等による皇室特有の室礼の定型が確立し,建築様式に関わらない身分表現が可能になった。
  • ―「女性週刊誌」記事の言説分析を通じて
    茨木 美子
    出版研究
    2019年 50 巻 71-90
    発行日: 2019年
    公開日: 2020/10/30
    ジャーナル フリー

    明仁

    天皇
    の「退位」に関して,女性週刊誌がどのように報じたかを言説分析から明らかにすることが本論文の目的である.「退位表明」から「特例法」の成立までは,
    天皇
    (皇室)と政府との「象徴」「
    天皇
    」「皇位継承」についての認識の違いと対立を明確にする「フレーム」が見出された.「特例法」制定以降から「退位」までは,「退位」以前の皇族の公的・私的行為を,一般庶民になぞらえて描く「大衆社会」の皇室像に回帰した.

  • 右田 裕規
    社会学評論
    2004年 55 巻 2 号 129-145
    発行日: 2004/10/25
    公開日: 2010/04/23
    ジャーナル フリー
    本論文の目的は, 戦前期女性の皇室観の分析を通じ, 民衆の生活世界に根ざしつつ, 近代
    天皇
    制と「女性」の関係を捉え直すことにある.アプローチしたのは, 1900-10年代以降の女性に広く現れた, 「スターとしての皇室」への強い憧憬・関心という心性である.本論文ではこの心性につき, 男性の皇室観と比較しつつ, 歴史社会学的な考察が加えられる.具体的にはまず, 戦前期女性の上記の心性が, 近代
    天皇
    制の大衆化を推進していった過程を概観することで, 彼女らが
    天皇
    制の質的変容をもたらしたことが示される.さらに上記の心性形成の諸要因の解明を通じ, 戦前期大衆
    天皇
    制の形成と日本の近代化過程との関係性が, ジェンダー論的視座から提示されるとともに, 家父長制と
    天皇
    制の間に対立のモメントの存在した事実が明らかにされる.
  • 音響と配役を手掛りに
    羽鳥 隆英
    映画研究
    2019年 14 巻 4-27
    発行日: 2019年
    公開日: 2020/04/09
    ジャーナル オープンアクセス
      本論は橋本忍の脚本を岡本喜八が監督した映画『日本のいちばん長い日』における昭和
    天皇
    表象の研究である。初めに 2019年現在の研究状況や岡本の作家的な経歴における
    天皇
    の問題を確認した上(第 I節)、劇中に張り巡らされた様々な水準のコミュニケーションに着目しつつ『日本のいちばん長い日』の長大な物語を整理した(第II 節)。次に映画大詰の玉音放送の場面を構成する映像=音響の相関性を精査し、先行の玉音放送表象などとも比較しつつ、『日本のいちば ん長い日』が試みる二重の異化と一重の相対化を指摘した(第III節)。さらに映画半ばの
    天皇
    による「大東亜戦争終結ノ詔書」の署名、玉音盤の吹込と特攻出撃の並行編集に焦点を絞り、第一に「サウンド・ブリッジ」を活用した音響設計(第IV節)、第二に
    天皇
    役の 8代目・ 松本幸四郎と特攻基地の指揮官・野中大佐役の伊藤雄之助の関係に着目しつつ(第V節)、
    天皇
    表象に暗示的に仕掛られた価値転覆性を指摘した。
  • 記者会見•行幸•皇室外交を中心に
    星野 安三郎
    法社会学
    1978年 1978 巻 30 号 22-43,224
    発行日: 1978/03/30
    公開日: 2009/01/15
    ジャーナル フリー
    This article study the realities of the social monarchy system (the emperor system as symbol) from a standpoint of "By what policy does its system sustain in Japan."
    In researching this problem, I form a way to analyze the stands of emperor's interview by newsmen, imperial presence and imperial household diplomacy, comparing with the stands in the emperor system under the constitution granted by the sovereign (Meiji Constitution).
  • 中村 光彦, 浅羽 英男, 藤瀬 勝彦
    日本建築学会計画系論文集
    2000年 65 巻 536 号 237-243
    発行日: 2000/10/30
    公開日: 2017/02/03
    ジャーナル フリー
    Tokugawa household (KISHU FEUDAL CLAN) Palace in Edo was atypical example of feudal lord' s palaces situated in Edo. This is a study on the coversion of this palace. The results are as follows. This palace was converted into the Temporary Impeial Palace and the detached palace at the early time of Meij period. Then, the private spaces were utilizd without mach change, but the pablic spaces were destroyed and changed for spaces of various purposes.
  • 阪口 由佳
    万葉古代学研究年報
    2024年 22 巻 21-31
    発行日: 2024年
    公開日: 2024/03/28
    研究報告書・技術報告書 オープンアクセス
  • 「皇室に関する意識調査」から
    荒牧 央
    放送研究と調査
    2020年 70 巻 3 号 22-29
    発行日: 2020年
    公開日: 2020/04/20
    研究報告書・技術報告書 フリー
    2019年10月に行なわれた即位礼正殿の儀を前に、皇室に対する関心や皇位継承のあり方などについての意識を探るための電話調査を実施した。今の皇室について関心がある人、親しみを感じている人、皇室と国民の距離が近くなったと感じている人はいずれも7割程度で、国民の多くは皇室に対して関心や親しみを持っている。女性
    天皇
    、女系
    天皇
    を認めることについても、それぞれ7割の人が賛成している。一方で、女系
    天皇
    の意味を知っている人は4割で、皇室制度を改める必要があるという人も半数程度にとどまっている。
  • 明治20(1887)年に行われた松方正義邸行幸を中心に
    池田 直也, 内田 青藏, 姜 明采
    日本建築学会計画系論文集
    2024年 89 巻 820 号 1164-1172
    発行日: 2024/06/01
    公開日: 2024/06/01
    ジャーナル フリー

    This paper investigates the intended spatial concept of the “Gyoko (Emperor Meiji’s visit) Palace” by analyzing the furnishings and living style, with a particular focus on the Masayoshi Matsukata Residence constructed as a Japanese-style building resembling the “Gyoko Palace.” Notably, the placement of chairs for the throne and the use of rugs on the floor leading to it suggest that the Emperor engaged with the Japanese-style building in a chair-sitting manner. Consequently, it is plausible to infer that the “Gyoko Palace” was designed to emulate a Western-style building, creating an equivalent spatial experience.

  • 牧 健二
    法制史研究
    1951年 1951 巻 1 号 262-264
    発行日: 1952/07/30
    公開日: 2009/11/16
    ジャーナル フリー
  • 大阪府立中之島図書館蔵「大和地方三十帝御陵絵図」
    伊藤 純
    日本考古学
    2003年 10 巻 15 号 107-127
    発行日: 2003/05/20
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    天皇
    の墳墓(陵墓)は,中世以来大半の所在が分からなくなっていた。江戸時代になり元禄年間,享保年間と陵墓の探索が行われ,文久年間には大規模な修陵がなされた。神武以降の歴代陵墓の治定が全て終了したのは明治22年(1889)である。陵墓の探索と治定には紆余曲折があり,元禄以降,明治22年に至る間,個々の墳墓に付された
    天皇
    名は不変ではなかった。したがって,陵墓の探索と修陵の際に作成された絵図は,治定の過程を知る重要な資料となる。
    元禄期の探索は,陵墓の治定の第1歩でありながら,この時に作成された絵図は写しのみが知られているだけで,原本は不明とされてきた。大阪府立中之島図書館に所蔵される『大和地方三十帝御陵絵図』は,これまでの研究では言及されたことのないものである。巻頭に記された絵図の来歴や,描き方の特徴から元禄期の山陵探索の際に作成された絵図(原本)と判断される。
    新出史料の『大和地方三十帝御陵絵図』を紹介し,識者の検討を仰ぎたい。
  • ―曖昧なる天皇の超越性―
    岡部 隆志
    アジア民族文化研究
    2020年 19 巻 223-241
    発行日: 2020/03/31
    公開日: 2023/05/01
    研究報告書・技術報告書 フリー

     七、八世紀に掛けて

    天皇
    は神という超越的存在となったが、その超越性の実質は曖昧なるものであった。その曖昧性は大嘗祭において確認できる。大嘗祭は、新嘗儀礼と
    天皇
    の皇位継承儀礼(神性の継承儀礼)の二重的性格を持つが、何故二重性なのか合理的に説明できない。また、
    天皇
    も祭る者でありながら祭られる神でもあるという曖昧な性格を持つ。実は、こういった曖昧性にこそ大嘗祭という祭祀の本質がある。アミニズム的自然神を基層に持つ神々の神性を、近代的律令国家を超える
    天皇
    の神性へと創り上げていくとき、どうしても曖昧さを抱え込む。その具体例が大嘗祭なのである。大嘗祭は秘儀であることが重要であった。何故なら、その曖昧性を、触れ得ぬ神秘性(秘儀)で覆うことによって、
    天皇
    の超越性を演出したからである。従って、
    天皇
    の超越性は曖昧性を実質とする。それは現在においても変わってはいない。

  • 名取 雅航
    映像学
    2022年 108 巻 57-77
    発行日: 2022/08/25
    公開日: 2022/09/25
    ジャーナル フリー

    本稿の目的は、アレクサンドル・ソクーロフ監督による『太陽』(2005年)の新たな意義を見出すことにある。これまでの歴史研究、またメディアおよび映画研究は、近代

    天皇
    が現実のレベルと表象のレベル双方においていかに隠されるべきものとして扱われてきたかを明らかにしている。そのなかで、映画において初めて昭和
    天皇
    (裕仁)を主人公として、また人間として描いた『太陽』は賞賛を集めてきた。一方で、その人間性は、侍従に対して冗談を言い、口臭を気にし、皇后である妻に手紙を認め、最終的に「人間宣言」を行うといったわかりやすいかたちにとどまらない、複層的なものである。本稿はまずその点について、〈見る/見られる〉、運動、演技という観点からテクスト分析を行い、本作における
    天皇
    の人間性が多様な映画的な手法と密接に結びついたものであることを明らかにする。また、そのような人間性の演出は、人間が
    天皇であり天皇
    は人間であるという事実の複雑性を示すにふさわしく、また両者を往還する存在としてこの主人公を立ち現わせることを可能にしている。
    天皇
    の人間性が決して自律したものではなく、
    天皇
    という役割と不可分の関係において描かれているのである。それらの分析と考察を通じ、『太陽』の意義は、
    天皇
    の「人間化」をあくまで現実的な交渉のプロセスとして表現することによって、
    天皇
    の人間性についての議論が伴う困難を観客に伝えることにあったと結論付ける。

  • 河上 麻由子
    日本仏教綜合研究
    2013年 11 巻 21-41
    発行日: 2013年
    公開日: 2019/04/25
    ジャーナル フリー
  • ―両性具有性のゆくえ―
    千葉 慶
    ジェンダー史学
    2006年 2 巻 5-19
    発行日: 2006年
    公開日: 2011/10/11
    ジャーナル フリー
    This paper deals with the political function of Amaterasu in the Modern Japanese Imperial State from the perspective of gender theory. What exactly was Amaterasu? First, as the ancestral goddess,she was the legitimating principle of the modern Japanese Imperial State. Second, Amaterasu was a cross-dressing goddess, an androgynous being. Androgyny was used as a sign that pointed to a being that lies beyond Power-Law; at the same time it was this higher being who defined Power-Law. In other words, androgyny was seen as the source of Power. For this reason, the attribute of hermaphroditism was included in Amaterasu as an icon of "Legitimacy" during the Restoration period and its changing social order. However, because the national order was constituted in a masculinist form, this hermaphroditic element came to be seen as threatening to patriarchy. Even so, the state could not let go of Amaterasu as a symbol of the source of authority. In the process of formation of the modern imperial nation-state, while the emperor and the government appropriated Amaterasu, her androgynous attributes were forcibly domesticated through social norms. Amaterasu could not be represented in national textbooks, staging her sacred character. This prohibition of representation symbolized at the same time the attribute of "great womanhood" (her symbolic hermaphroditism).
    Despite the Meiji system's consideration of her hermaphroditic attributes to be heretical, these attributes did not entirely disappear. On the one hand, Amaterasu's attributes became the fundamental support of the women's equal rights movement; on the other hand, as the hall-mark of divinity that overcomes the worldly dimension of existence, Amaterasu's attributes were incorporated by cults whose aims were social transformation. Ironically, in the second half of the Meiji period, Amaterasu's hermaphroditism, the source of power, was effaced from the sphere of "Legitimacy," to remain only in the realm of "Heresy."
  • 埼玉県秩父地方における秩父宮をめぐる諸言説の検討から
    茂木 謙之介
    頸城野郷土資料室学術研究部研究紀要
    2016年 1 巻 5 号 1-24
    発行日: 2016年
    公開日: 2019/04/18
    研究報告書・技術報告書 オープンアクセス
    戦前期の埼玉県秩父地方において、特権的な立ち位置をもった皇族に、昭和
    天皇
    の弟宮である秩父宮雍仁親王がいた。地域の名前を冠した皇族という存在と、それとの関係形成は、近代化の中で〈傷〉を負った地域としての秩父地方にとって、
    天皇
    (制)国民国家への参入のための階梯となっていた。また、同時代においては地域と秩父宮との関係性の深さが繰り返し語られていたが、それは地域や語りの主体の卓越化に直結するものであった。まさに〈僻地〉かつ過去に〈負〉の記憶を有する土地にとって、皇族は救済を齎す存在として在り得たのである。だが、秩父地方における皇族表象の特異性はそれだけにとどまるものではない。地域からの過剰な親密さは時として皇族の権威性を攪乱し、地域において生起していた秩父宮の神格化の進展は時として昭和
    天皇
    をも超越するような状況をも生んでいた。いわば皇族への過剰な寄り添いと、それをもととした皇族表象の生成は、結果として
    天皇
    (制)国民国家の規範を揺さぶるものともなっていたのである。
  • 「隠蔽」される天皇
    井上 正望
    史学雑誌
    2021年 130 巻 4 号 38-63
    発行日: 2021年
    公開日: 2022/04/20
    ジャーナル フリー
    本稿は、十~十三世紀の期間を主として、中世的
    天皇
    の形成過程の検討を行うものである。中世的
    天皇
    の特徴として、個人としての側面と機関としての側面の二面性を持つことが指摘されてきたが、そのような二面性の分化過程を、特に
    天皇
    の「隠蔽」に関する検討を中心に明らかにすることを目指す。従来古代~中世の
    天皇
    変質に関しては、その相対化ばかりが注目されてきたが、実際には形式的ながらも絶対化も並行して行われていたことを明らかにする。
     本稿で扱う
    天皇
    の「隠蔽」は、御簾と「如在」の利用を主とする。実在しない霊魂や神々を存在するとみなす中国の作法であった「如在」が、十世紀の日本では不出御の
    天皇
    を出御しているとみなす、
    天皇
    機関化作法に展開していたことを指摘する。そして村上
    天皇
    による母藤原穏子に対する服喪時に、清涼殿で「尋常御簾」を使用したことが、倚廬で服喪・忌み籠りしていて清涼殿に不在という
    天皇
    の個人的側面を「隠蔽」し、
    天皇
    は表向き清涼殿にいるとみなす「如在」の一形態であり、
    天皇
    機関化作法であることを述べる。これは、
    天皇
    の相対的な個人的側面を「隠蔽」し、機関化され表向き服喪することがない形式的ながらも絶対的な側面を維持する方便である。
     更に御簾に関する検討から、
    天皇
    の服喪姿「隠蔽」は仁和三年から昌泰三年までの間に成立したであろうことを指摘する。これは、九世紀後半以降、特に皇親以外の
    天皇即位などの天皇相対化に危機感を持った天皇たち自身による天皇
    機関化を背景とする。
     また「如在」については、皇位継承時の如在之儀を再検討する。これは本来皇位喪失による
    天皇
    「ただ人」化=相対化を「隠蔽」し、
    天皇
    を表向き皇位を喪失していない=「ただ人」化していない、形式的ながらも絶対的存在として扱う作法だったことを指摘する。
    以上から、
    天皇
    「隠蔽」による
    天皇
    の二面性分化明確化過程の検討を通して、中世的
    天皇
    の形成過程を明らかにする。
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