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クエリ検索: "山口牧生"
5件中 1-5の結果を表示しています
  • 竹田 直樹, 八木 健太郎
    環境芸術
    2003年 3 巻 1-8
    発行日: 2003/10/22
    公開日: 2017/10/06
    ジャーナル フリー
    本論は1970年代から1980年代初頭にかけて試みられた彫刻シンポジウムにおける彫刻余の共同制作に着目したものである。その成果物のいくつかは、彫刻というより造園作品といえるもので、ランドスケープデザインの観点から分析する価値がある。共同制作を支えた思想や手法を明らかにし、その成果について考察を行った。彼ら彫刻家がランドスケープの公共性に着目しつつ、一個人の個性に依存しないアノニマスな性質をもつデザインを目指したこと、複数の参加者の意志を統合するために、長時間をかけたディスカッションを行っていたことなどを明らかにした。これらは、ランドスケープデザインの質について考える上で有用な事実である。
  • 竹田 直樹, 八木 健太郎
    ランドスケープ研究
    2003年 66 巻 5 号 465-468
    発行日: 2003年
    公開日: 2003/09/24
    ジャーナル フリー
    City of Hachioji was the first municipality that introduced the Sculpture Symposium as part of the Sculpture in Public Place Program. This paper analyzed the development process of the ideas, concepts, and outcomes of the Sculpture Symposia before the first Hachioji Symposium held in 1976, and how Hachioji city administration combined the symposium with the public sculpture policy. In conclusion, Hachioji city administration was not interested in the underlying ideas and concepts of the sculpture symposium. Their major concern was the administrative advantages of the symposium scheme. Therefore, important ideas and concepts of the sculpture symposium developed during 1960s and 70s were lost in the subsequent sculpture symposia initiated by the local governments. Sculpture in Public Place Program and Sculpture Symposium were not successfully combined.
  • 橋本 忠和
    環境芸術
    2012年 11 巻 71-79
    発行日: 2012/11/24
    公開日: 2018/04/04
    ジャーナル フリー
    2010年から「瀬戸内国際芸術祭」がスタートしている。アートによる地域活性化をめざすこの芸術祭では,古い家屋を改修・改築する「家プロジェクト」や廃工場をアートで再生する取り組みが展開されている。このように現代芸術で地域社会を活性化させようとする動きは,都市から里山・離島に至るまで全国各地で興っている。そして,それらの地域において市民と芸術家,さらに諸団体が相互に連携して地域環境を素材とした環境芸術の作品を作り出している。そこで,本論においては,日本における「環境芸術」と地域社会との関係性の変遷を彫刻設置事業とアート・プロジェクトを手がかりに整理することで,「環境芸術」が地域社会とどのような関係を持ってきたのかを明らかにし,現代社会における意義を考察する。
  • -地域社会における教育的意義を中心に-
    市川 寛也
    美術教育学:美術科教育学会誌
    2021年 42 巻 67-82
    発行日: 2021年
    公開日: 2023/11/01
    ジャーナル フリー
    本研究は「ポストミュージアム」の視点から日本におけるアートプロジェクトについて考察したものである。近代的博物館が有形資料の収集を軸としていたのに対して,ポストミュージアムでは無形文化を含む資料の活用が重視される。また,利用者とのコミュニケーションも展示に限らない多様な方法が用いられる。本稿では,その実施形態として「土着型博物館」「エコミュージアム」「アートプロジェクト」を取り上げた。さらに,アートプロジェクトを実践形式に応じて「展覧会形式の事業」「サイト・スペシフィックな野外展示」「コミュニティ・スペシフィックなプロジェクト」に分類した。特に,第三の実践モデルは人と人との対話のプロセスを通して展開されることで,構成主義的な学びが達成される。上記の分類に従い,地域社会と芸術との関係を構造化する視点を示した。
  • 柴田 葵
    環境芸術
    2012年 11 巻 48-56
    発行日: 2012/11/24
    公開日: 2018/04/04
    ジャーナル フリー
    本稿では、「彫刻シンポジウム」(Bildhauersymposion/sculpture symposium)の初期(1959年から1970年まで)の歴史を記述し、シンポジウムの理念と担い手の変遷について論じることを目的とする。彫刻シンポジウムは、冷戦構造下のヨーロッパの政治状況を背景として、1959年ザンクト・マルガレーテン(オーストリア)の石切り場で誕生した芸術活動である。1956年のハンガリー動乱を背景に、58年に彫刻家カール・プラントルが制作したモニュメント「境界石」が、彫刻シンポジウムを生む直接の契機となった。プラントルは、新時代の彫刻のあり方として、「石切り場における芸術」を提唱し、さらには芸術家のエゴイズムを克服しうるユートピア的な共同体を、彫刻シンポジウムの中に見出す。彫刻シンポジウムは、次々と他地域に飛び火し、1960年代には国際的な芸術運動としての様相を呈するに至った。マルガレーテン、フォルマ・ビバ、リンダブルンなどの.主要な彫刻シンポジウムは、彫刻家同士の創造性を触発し、世界各地で新たなシンポジウムを生み出す孵化装置としての役割を果たした。それと同時に1960年代半ばから、彫刻シンポジウムにおける主体と目的に根本的な変容が見られ始めた。作家主導からパトロン(行政・企業など)主導へ、創作プロセスの重視から完成作品の恒久設置に力点が置かれるといった傾向が見られるようになる。シンポジウムの多様化にともなう理念の揺らぎ、シンポジウムそのものへの本質的懐疑など、60年代にはシンポジウムに対するあらゆる批判・議論が噴出することになった。彫刻家たちによる1970年の2つのプロジェクト-都市計画「ステファン広場」と環境造形「日本の溝」は、このような諸問題に対する作家からの応答としてなされたものであった。
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