慶長・元和期の徳川家康を中心とする儀礼における装束を考察し、慶長八年(一六〇三)二月と慶長二〇年(一六一五)一月に二度の画期があったことを明らかにした。一度目は、家康の将軍宣下を契機としたものであり、それ以降、家康のもとへ御礼に向かう公家たちは室町将軍対面時の故実に則った装束を着用したが、一方家康は武家固有の装束である直垂を主とする服装をとり、狩衣を最上位とする従来の武家装束大系とは一線を画した。ここで問題となったのが、本来武家よりの装束を身につけるはずの武家昵近衆である。彼らは当初、狩衣を着用していたが、慶長二〇年一月御礼を境にいっせいに直垂・肩衣袴へとその装束を転換させた。これが二度目の画期であり、そこには家康の指示があったことを明らかにした。これにより武家服飾は、直垂を主軸としたものへと統一され、この原理は江戸城内儀礼における装束を規定する起源となったと考えられる。
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