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クエリ検索: "日本考古学会"
63件中 1-20の結果を表示しています
  • 常松 幹雄
    日本考古学
    2004年 11 巻 17 号 67-79
    発行日: 2004/05/20
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    弥生時代の鐸形土製品は,銅鐸や小銅鐸を粘土で表現したものとされ,九州北部から近畿,東海地方にかけて分布している。鐸形土製品には,文様がみられないもののほか,流水文や袈裟襷文,横帯文など銅鐸の文様を写したものや,絵画や象徴的な記号を刻んだ例がある。
    小文は,絵画や記号のある鐸形土製品に共通する「人物」「戈」「×」について絵画土器や青銅器の意匠と比較し,その意義について考察するものである。
    まず「人物」は,戈などの武器と楯を手にしている場合が多い。武装した人物とは,実際の戦闘というよりは穀霊と交感する際の装いであり,稲作にかかわる祭祀に不可欠の役割が与えられていたことを示している。
    二つめの「戈」は,もともと刃部を直角にちかい角度で柄に装着し,殺傷する機能をもっていた。弥生人が,「戈」の鉤状の形態に特別なイメージをいだいていたことは,原始絵画に描かれた武器のほとんどが「戈」であることからも推測される。
    さいごの「×」は,絵画というより記号に近い表現である。筆者は,武器をもつ人物の逆三角形の上半身を延長すると,交叉部分は「×」となることから「戈をもつ人物」の象徴的な表現ととらえた。近畿や山陰地方の土器絵画や大阪湾型銅戈の鋳型,出雲の銅剣の茎や銅鐸の鈕にも「×」表現はみられる。このほか瀬戸内の平形銅剣や九州北部の銅戈の内にも「×」を鋳出したものがある。
    「人物」「戈」「×」,これら三種の表現は,単独ではなく密接に関連しあっていたようだ。戈に柄を装着した鉤状の形態に辟邪,穀霊と交感する戈を手にした人物に豊饒という主題を見出すなら,鐸形土製品には,銅鐸や武器形青銅器に通じる意義が付加されていたと考えられる。しかも集落域や水辺に近い遺構で出土する点では,小銅鐸の出土状況と共通している。したがって鐸形土製品は,いわば水利灌漑施設を共有する規模の集団を対象とする祭祀のアイテムといえるようだ。
    鐸形土製品に描かれた絵画や記号は,弥生中期後葉から後期前葉にかけての西日本に点在する表現である。弥生人は,地域ごとに固有の墓制や土器様式を保持しながらも,豊饒や辟邪にまつわる精神世界を共有していたのである。
  • 中井  正弘
    太成学院大学紀要
    2018年 20 巻 179-186
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/04/02
    研究報告書・技術報告書 オープンアクセス
    今回,新たに知見できた江戸時代延享期の大山古墳(仁徳陵)の絵図を詳細に検討すると,現状の姿や復元模型などとは異なっている。江戸時代の新田開発策によって周濠と堤がかなり耕地化され,外観に大きな変化が見られる。しかし,よく検討すると築造時の周濠と堤の原型を知ることができる。築造時の復元をするには,各時代の政治や政策による変形の検証が大事になってくる。そのための研究に役立てたい。 また,行政を中心に進められている百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録運動の問題点にも論及したい。
  • 高瀬 忠重
    日本建築学会計画系論文集
    1996年 61 巻 487 号 195-201
    発行日: 1996/09/30
    公開日: 2017/02/02
    ジャーナル フリー
    This study intends to establish the method of measurment of the ring type settlement in Jomon-period, and to find the average size of the settlement from the spatial point of view. According to the centripetal composition of the settlement, the method of measurement is to calculate the area defined with the oval envelope on map. After calculation, it is found that the measurements are in the range of 2,000〜13,000m^2, and the avarage image of the settlement is an oval-shaped, 4.500m^2 broad, and on tableland of 70m wide.
  • 速水 保孝
    ビタミン
    2003年 77 巻 4 号 220-
    発行日: 2003/04/25
    公開日: 2017/12/26
    ジャーナル フリー
  • その学理と技法の探究
    *飯嶋 秀治
    日本文化人類学会研究大会発表要旨集
    2020年 2020 巻
    発行日: 2020年
    公開日: 2020/09/12
    会議録・要旨集 フリー
    「応答の人類学」の焦点の一つが「エデュケーション」となったのは、人類学が人類学者を再生産するその場面にこそ、いわゆる文化人類学的な研究と教育が行われるのではないかという問題設定があった。本発表では大学ガイドラインを扱うが、①応答は、事前に企画されたものではなく、②時間や資源には明確な限定内で状況的な具体的デザインをする必要性があり、③公的にするのは難しい話題もある等の諸点が見いだすことになる。
  • 金城 朝永
    民族學研究
    1949年 13 巻 4 号 429-430
    発行日: 1949年
    公開日: 2018/03/27
    ジャーナル フリー
  • 岩手県における晩期土偶の基礎的分析
    金子 昭彦
    日本考古学
    2003年 10 巻 15 号 95-106
    発行日: 2003/05/20
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    土偶はバラバラの小片で出土することが多く,出土後に接合することは少なく完形に復元されることは非常に稀である。これを特異な在り方,壊した結果とみるには,同時期の他遺物の出土状況と比較する必要がある。そこで,まず手始めとして土偶がどのくらい壊れているかを,「土偶とその情報」研究会が集成した晩期土偶の資料集(「土偶とその情報」研究会1996)の岩手県分,1,035点を例として,他遺物と比較できる形で数値化してみた。蓋然性のある数値を求めるために,形態(つくり,大きさやプロポーション等)・時期の違いを考慮して数値化した(別稿表)。
    形態別に集計した結果を比較すると,まとまった点数のある形態は,x字形土偶と小形無文土偶を除いて,似たような平均値を示すことがわかった(表1)。その値は0.2前後で,頭くらいの部位か,それが欠損した程度の大きさである。また,ほとんどの形態の平均値や最多帯は0.2以下にまとまるのに,完形に近い個体も必ずと言って良いほど存在する(表3)。
    平均値の細かい違いに注目すると,大形の形態ほど小さく,小形のものほど大きい,中空の形態は小さく,中実・小形板状の形態は大きいと見ることができる。x字形,小形無文土偶は,平均値,最多帯も含めて,出土時の大きさが大きい。小形で中実,板状の土偶は,大形や中空土偶に比べ残存率(出土時の大きさ)が多様である。また,大型遮光器とその系譜を引く土偶を見る限り,一形態の中で時期による変化は読みとれない(表2)。
    以上の形態による違いのほとんどは,つくり(大きさ,形,中空と中実)という物理的条件の違いから起こる壊れ易さの違いと解釈することができる。今後,単純に物理的条件だけで土偶の壊れ方を形態ごとに机上でシミュレーションし,その計算結果と比較すれば,よりはっきりするだろう。
    本稿では,最も基礎的な集計のみ行ったので,数学が得意な方に高度な分析をしてもらいたいと希望するものである。また,土偶破壊説の立場をとる研究者が本稿のデータに基づいて批判されることを期待したい。
  • 田尻 義了
    日本考古学
    2004年 11 巻 18 号 53-72
    発行日: 2004/11/01
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    小稿の目的は,主に北部九州から出土する小形〓製鏡を対象として,従来から述べられてきた一元的な青銅器生産体制に対し新たな方向性を示すことである。
    須玖遺跡群において,青銅器生産が行われていたことについては,これまでの調査・研究から明らかにされている。また,青銅器生産が須玖遺跡群を中心として行われ,青銅器の生産と配布を管理する主体が存在したと想定されている。しかしながら,青銅器生産の証拠ともなるべき鋳型は,須玖遺跡群以外の周辺の遺跡からも多数発見されている。それら周辺における青銅器生産と,須玖遺跡群との関係を明らかにすることが,小稿の具体的な目的である。
    対象資料として小形〓製鏡を選択したのは,北部九州に存在する数少ない有文の青銅器だからである。文様を持つことから,数多くの属性を取り上げることができ,結果として同笵関係や製作順序などが明らかになるからである。
    小稿では,小形〓製鏡の鏡背面文様により鏡群を設定し,それぞれの出土分布を検討した。その結果,鏡群ごとに出土分布に偏りのある時期と,全体がまとまる時期に区分することができた。これらの時期による分布のあり方の違いから,小形〓製鏡の生産と流通の形態について考察した。すなわち,文様が豊富でバリエーションが認められる時期には,鋳型も須玖遺跡群以外から出土し,分散した生産と流通であるとし,画一的で規格性の高い文様の鏡群が製作される時期には,鋳型も須玖遺跡群から出土していることから,集約した生産体制であると結論づけた。このことから青銅器の生産と管理を行う主体が,常に安定していたのではないことが明らかとなった。また,生産量の検討から,終末期の青銅器生産について,集約した生産体制であっても生産量が減少していた可能性が高いとした。
  • 太田 宏明
    日本考古学
    2003年 10 巻 15 号 35-56
    発行日: 2003/05/20
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    畿内型石室は,地域的にも階層的にもきわめて広範囲にわたって採用された埋葬施設である。したがって,石室構築技術の伝達という側面から古墳時代後期の集団関係を考察するために重要な資料である。本稿は,畿内型石室の編年を行い,階層間・集団間において石室構築技術が伝播した過程について考察したものである。論を進めるために以下の4つの章を用意した。
    1章では,研究史の整理を行い問題め提起を行った。2章では,1章で行った問題提起に従い,すべての地域や階層が共有し,共通した変遷をしている部位に注目して分類・編年を行い,畿内型石室の変遷を一系列で理解できることを示した。この中で,1節では,畿内中枢部の大型石室を1から9群に分類し,各群が畿内型石室の変遷過程を示していることを証明した。同じく2節では,各群が畿内各地の群集墳にも認められることを示し,畿内型石室が極めて斉一的な変遷をしていることを述べた。3章では,畿内型石室が広い階層と地域にわたって斉一的に変遷する理由について考察した。考察の結果,畿内型石室は畿内中枢部で共有化された石室構築技術が畿内各地域の群集墳被葬者層に一元的に伝達されることによって斉一的な変遷が起きていることを述べた。最後に,畿内型石室構築技術の一元的な伝達を可能にしたのは,政権中枢をになう氏族と畿内地域の群集墳被葬者層との強固な階層間の紐帯であり,この紐帯が古墳時代後期の畿内地域における階層構造の特徴であると考えた。
  • 杉本 宏
    日本庭園学会誌
    1995年 1995 巻 3 号 2-9
    発行日: 1995/03/31
    公開日: 2011/05/20
    ジャーナル フリー
    本稿は、鳳凰堂仏後壁画に描かれる阿弥陀浄土図および平等院庭園の発掘調査状況を紹介し、阿弥陀浄土図の園池表現と平安期平等院庭園との関連性について考察を加えたものである。寝殿造庭園の様式的完成を背景として、理想的な庭園美として阿弥陀浄土図に洲浜形宝池が描かれ、また平等院に洲浜をあしらった浄土庭園が作庭されたことを指摘した。
  • 熊谷 圭知
    人文地理
    2023年 75 巻 4 号 442-443
    発行日: 2023年
    公開日: 2024/03/22
    ジャーナル 認証あり
  • 坂口 昌男
    繊維機械学会誌
    2011年 64 巻 10 号 615-619
    発行日: 2011年
    公開日: 2023/09/26
    ジャーナル フリー
  • 石田 英實
    Anthropological Science (Japanese Series)
    2013年 121 巻 2 号 85-87
    発行日: 2013年
    公開日: 2013/12/21
    ジャーナル フリー
  • 伊藤 清司
    民族學研究
    1981年 46 巻 1 号 125-127
    発行日: 1981/06/30
    公開日: 2018/03/27
    ジャーナル フリー
  • その可能性と課題
    吉開 将人
    東南アジア -歴史と文化-
    2002年 2002 巻 31 号 79-96
    発行日: 2002/05/30
    公開日: 2010/03/16
    ジャーナル フリー
    Lingnan (Guangdong and Guangxi in China) and northern Vietnam have a long history of relation dating back to ancient times. However, after Vietnam's independence from China, the history of both areas came to have completely different meanings for both Chinese and Vietnamese historians. This article is an attempt to discuss the history of both areas as an unity, based mainly on recent archaeological studies.
    The topics discussed here are:
    (1) The conquest of the Lingnan area by the Qin dynasty began within one year after the unification of the Warring States and that northern Vietnam was outside of the Qin's conquest area.
    (2) The Nanyue kingdom established by Zhaotuo at the end of the third century B. C. in the Lingnan area had different control systems over different areas of the kingdom. Northern Vietnam was one of them.
    (3) Except that several artifacts belong to early Shang dynasty, all of the early dated findings related to Chinese cultural tradition, such as a bronze pot, coins and mirrors unearthened in northern Vietnam, are dated the Nanyue period, the second century B. C.
    (4) The significance of the Nanyue period as the starting point of political and cultural relation between Lingnan and northern Vietnam should be highly valued.
    (5) Official seals for special titles and other archaeological facts showing as continuation of local tradition indicate that political control over native leaders and the cultural tradition since the Nanyue period basically continued in these areas, even after the conquest of Nanyue by emperor Wudi of the Han dynasty in 111 B. C. until the middle of the first century A. D.
    Several historical issues during the first millennium A. D. and problems about the construction of self-image and historical identities by both Vietnamese and Cantonese historians after independence of Vietnam from China are also discussed.
  • 地理学評論
    1951年 24 巻 3 号 101-104_1
    発行日: 1951/03/10
    公開日: 2008/12/24
    ジャーナル フリー
  • 羽生 淳子, 奈良 貴史, 佐藤 孝雄
    Anthropological Science (Japanese Series)
    2015年 123 巻 1 号 9-13
    発行日: 2015年
    公開日: 2015/06/20
    ジャーナル フリー
  • 大日本窯業協會雑誌
    1900年 8 巻 91 号 244-252
    発行日: 1900年
    公開日: 2010/04/30
    ジャーナル フリー
  • 古代上野の瓦塔信仰と仏教
    小林 修
    日本考古学
    2004年 11 巻 17 号 97-110
    発行日: 2004/05/20
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    本稿は,群馬県勢多郡赤城村三原田諏訪上遺跡で発掘調査された奈良時代後半から平安時代初頭の瓦塔を安置したと推定される仏堂跡の,調査概要及び古代上野の仏教信仰についての考察を主題としている。北関東地方の群馬県では,当該;期の民衆層に影響を及ぼした仏教に関連する遺跡の調査は稀であり,三原田諏訪上遺跡では集落に付属して,瓦塔を安置した仏堂が存在することが判明した。この仏堂は,地形を施した礎石建物で大棟を甍棟か熨棟程度にする部分的な瓦葺構造であったことが推定でき,瓦塔を安置するための基壇に相当する施設が造られていることも判明した。
    上毛の山並みに抱かれた赤城山の麓において,8世紀後半に出現した集落は9世紀中頃には途絶えるようであり,集落と一体となった仏堂の展開が予測できることから,東国社会において瓦塔を安置して礼拝対象としたその信仰の実態を窺うことができる。本遺構の検討によって,古代上野の農村社会における瓦塔信仰の背景にある仏教信仰の展開も予測したい。
  • 田辺 由太郎
    ファルマシア
    1976年 12 巻 5 号 382-386
    発行日: 1976/05/01
    公開日: 2018/08/26
    ジャーナル フリー
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