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クエリ検索: "柔遠駅"
13件中 1-13の結果を表示しています
  • 前堂 颯世
    琉球沖縄歴史
    2020年 2 巻 25-46
    発行日: 2020/08/31
    公開日: 2023/12/23
    ジャーナル フリー
  • 高良 倉吉
    日本計算機統計学会大会論文集
    1995年 9 巻
    発行日: 1995/04/26
    公開日: 2017/07/24
    会議録・要旨集 フリー
  • 泉田 英雄, ウィドド ヨハネス
    住宅総合研究財団研究年報
    1996年 22 巻 147-156
    発行日: 1996年
    公開日: 2018/05/01
    ジャーナル オープンアクセス
     東南アジアの街並みの特徴である街屋建築の成立経緯を明らかにすることを研究目的にし,1992年度はいわゆる東南アジア島嶼部(マレイ半島,ボルネオ島,ジャワ島)を対象としたのに対して,今年度はヴェトナムから南中国までの大陸部沿岸の歴史的都市を扱う。これでほぼ南シナ海沿岸に築かれ,現存する歴史的居住地とその住居建築を概観することになり,1992年度の研究成果と比較することによって地域全体の特徴分析を行なうことが出来ると考えられる。より具体的には,今年度新たに取り上げた歴史的居住地は,ヴェトナムのフエ,ホイアン,ロンスエン,南中国の福州と泉州で,これらの居住地パターンと街屋類型を実測調査で明らかにした。その結果,居住地パターンに関しては明らかに南シナ海沿岸では共通した特徴が見いだされた。一方,街屋建築に関しては全体的に室内空間の配置と使われ方に共通するものがあったが,材料と構法に大きな違いがあった。その理由は,大陸部沿岸の歴史的居住地では現地権力や先住民との関係が強く,また西洋植民地権力からの影響が希薄であったことが考えられる。背景には港市という地理的・社会的条件が強く働いており,これは城壁で囲まれ,その中に四合院あるいは三合院がひしめく行政都市とは分けて考えるべきものであろう。今日泉州や福州の旧港市部分でいくつかの歴史的街屋建築が現存していないのは,清代の海禁政策のせいでその居住地が衰退したためであろう。
  • 真栄平 房昭
    交通史研究
    2008年 67 巻 61-76
    発行日: 2008/12/31
    公開日: 2017/10/01
    ジャーナル フリー
  • 田場 裕規
    全国大学国語教育学会国語科教育研究:大会研究発表要旨集
    2023年 145 巻
    発行日: 2023/11/04
    公開日: 2024/03/19
    会議録・要旨集 フリー
  • 窪 徳忠
    宗教研究
    2005年 78 巻 4 号 1249-1272,xiv
    発行日: 2005/03/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
    本居宣長などは、日本には道教は伝来しなかったというが、宮内庁書陵部現蔵の『正統道蔵』は一七世紀後半に佐伯毛利藩が入れたものだから、日本は道教と無関係ではない。一九五〇年に成立した日本道教学会の会員の活躍で、道教研究は大いに発展した。私は柳田国男の説によって沖縄県地方に庚申信仰の初期の形式を探しにいったが、中国的信仰のみ眼につき、庚申信仰はなかったので、目的を変更し、爾来沖縄の中国的信仰を調べ続けている。沖縄に道教の符に対する信仰の初伝は一五世紀中葉だが、福建人の来住と冊封体制下に入った結果、中国の影響を大きく受け、道教の高位の雷神、村や集落の守り神の土地公、后土神ともよぶ守墓神などの信仰を受け容れている。ただその場合、受容直後には中国の場合と全く同形だったであろうが、年を経た現在ではかなりの変容がみられる。異文化受容の際の当然の傾向であろう。
  • 荷見 守義
    史学雑誌
    2004年 113 巻 5 号 819-827
    発行日: 2004/05/20
    公開日: 2017/12/01
    ジャーナル フリー
  • 史学雑誌
    2003年 112 巻 10 号 1734-1750
    発行日: 2003/10/20
    公開日: 2017/12/01
    ジャーナル フリー
  • 山田 水城, 路 秉傑, 古川 修文, 薛 光弼, 出口 清孝, 魯 晨海, 大塚 信哉, 久保田 雅代
    住宅建築研究所報
    1988年 14 巻 191-201
    発行日: 1988年
    公開日: 2018/05/01
    ジャーナル オープンアクセス
     昭和61年度は沖繩と台湾の民家を実測調査したが,本年度は台湾省と対峙する位置に在る福建省の福州市,泉州市,厦門市における民家の実測調査を行なった。閩江河口に在る福州市は地形的に風は弱く,樹木も豊富で,薄い黒灰色瓦をたる木上に置いた屋根を持つ木造三合院が多い。しかし,閩南地方の泉州および厦門の民家は磚,土を用いた組積造で,屋根は素焼きの赤瓦を厚く葺いていて漆喰で固めており,家屋の形態や居住環境は・湖島・台湾南西部の民家と同じである。それは明代以降台湾への移民のほとんどが泉州人・漳州人であることから見ても当然である。一方,琉球は14世紀に入って明国との交易(進貢,冊封)が開始されてから社会的発展が急速に進んだが,その背景のひとつに1392年に来琉した閩人36姓の活躍があったと言える。36姓は泉州・漳州の出身者が40%以上を占め,当時の泉州は台湾と琉球の両方と深い繋がりを持っていた。彼らはその子孫を含めて琉球の政治・経済・文化に大きな影響を与えたと思われる。例えば建築の分野においても,ほぼ矩形の敷地を石牆で囲み,門・ヒンプン・二番座の祭壇が敷地中心軸上に並ぶ構成は,中国民家と共通するものである。二番座は三合院の祖堂に対応するものであり,祭壇上の扁額の色,形,あるいは,民家の屋根瓦の色,材質,製造法などは閩南地方のそれと酷似している。しかし一方においては屋根を寄せ棟とし,軒の出の深い開放的な木造家屋を屋敷林で囲むという日本在来の形態も有している。すなわち沖縄の民家は日本文化と閩南の文化を複合させつつ,どちらにも偏らない沖縄独自の建築を築きあげたと言える。しかしこの複合文化は17世紀初めに薩摩の支配下に変った奄美諸島では開花を見ず,民家の形態・材料・間取りも異なっている。福建から台湾西部・先島群島・沖縄諸島に至る同緯度圏に波及した閩南文化は,沖縄本島を北限として終結している。
  • 渡辺 美季
    史学雑誌
    2005年 114 巻 11 号 1801-1835
    発行日: 2005/11/20
    公開日: 2017/12/01
    ジャーナル フリー
    Early-modern Ryukyu (modern Okinawa prefecture) is defined temporally as the period from 1609, when it was invaded by Satsuma domain, until its annexation by Meiji Japan in 1879. During this period, the Ryukyu government continued its tributary relationship initiated in the fourteenth century with Ming China, while it was brought into the political orbit of Tokugawa Japan. The presence of two large states in the same region often causes discord, but early-modern Ryukyu kept this paradoxical situation relatively stable. One reason for this was the Ryukyu court's policy of concealing its relations with Japan from China (in particular, Qing China). Previous research has identified this policy, but its actual implementation has not yet been adequately examined. This article examines the Ryukyu court's efforts to mask Ryukyu-Japanese relations by focusing on castaways : Ryukyuan castaways to China and Chinese or Korean castaways to Ryukyu. The problems associated with castaways worried the Ryukyu government as a potential cause of exposure of the relations with Japan. Techniques and excuses for hiding interactions with Japan, who learned those techniques, how they were practiced, and who knew of the concealment is discussed. The author attempts to show that (1) the kingdom of Ryukyu had a national policy for concealing relations with Japan from China, (2) this policy formed not only a wall with China but also a wall with Satsuma, which sought to control Ryukyu's foreign relations, (3) as a result, the policy secured a space within which the Ryukyu court was able to exercise its own discretion, and (4) by controlling this space the Ryukyu court maintained peaceful relations with both China and Japan. The concealment policy supplemented the court's adaptation to the coexistence of two states trying to impose theories of rule over Ryukyu and enabled stable and independent governance in the seams between these two larger neighbors. The court's governance overlapped with its efforts to adjust to and escape from the contradictions of being overseen by China and Japan. Finally, it is pointed out that the boundary zone between China and Japan was managed autonomously by a boundary zone.
  • 史学雑誌
    1988年 97 巻 2 号 256-276
    発行日: 1988/02/20
    公開日: 2017/11/29
    ジャーナル フリー
  • —家譜の読解と元祖の位牌の新設—
    武井 基晃
    比較家族史研究
    2018年 32 巻 8-30
    発行日: 2018/03/31
    公開日: 2019/03/31
    ジャーナル フリー
  • 村上 直, 西沢 淳男, 安田 寛子, 筑紫 敏夫, 佐々木 利和, 梅木 哲人, 武田 万里子, 米崎 清実, 斉藤 司, 岩橋 清美, 澤登 寛聡, 酒井 耕造, 宇佐美 ミサ子, 宮本 瑞夫
    史学雑誌
    2001年 110 巻 5 号 809-836
    発行日: 2001/05/20
    公開日: 2017/11/30
    ジャーナル フリー
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