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クエリ検索: "武蔵" 格闘家
5件中 1-5の結果を表示しています
  • 長野 峻也
    バイオメカニズム学会誌
    2005年 29 巻 3 号 129-132
    発行日: 2005年
    公開日: 2007/10/19
    ジャーナル フリー
    本論は,基本的に「武術文化に対して全般的に認識している専門家は皆無に等しい」という認識から出発し,更に武術に関して何の予備知識もない読者を対象に論じるに当たり,「武術に対して巷間に広まった誤った情報」を正し,「武術が現代武道へ統合再編される中で失われたもの」を論じ,「日本古武術の失われた理合(交叉法)」を紹介し,「武術の要である歩法」を論じています.本来,武術は身体訓練を通して意味を理解していかなければ本質的な理解は不可能であり,文章のみで身体操作のコツを書き並べても誤解されるのがオチと考え,参考として,全くの素人が身体操作のコツを知れば極意の技も容易に再現できることを実証すべく写真も添えました.
  • ―身体文化の歴史社会学―
    中江 桂子
    スポーツ社会学研究
    2013年 21 巻 2 号 15-30
    発行日: 2013/09/30
    公開日: 2016/08/01
    ジャーナル フリー
     本稿の目的は、身体とスポーツがどのような近代的陥穽に陥ったか、という問題について、前近代的な視点を用いて近代を逆照射することにより、明らかにすることである。
     そこで本稿では第一に、西欧文化史の個性をいち早く作り上げたギリシャ・ローマ時代まで遡り、身体と学びの原初形態について概観した。そこでは、美しさに恍惚となるエロス的な関係性のなかに、教育的機能を含ませ、世界への知を深める営みとしての学びがあった。第二に、封建社会とキリスト教が独特の結びつきを見せた中世の騎士道において、試練や苦痛を乗り越えてこそ、その先にロマンスや幸福を獲得できるはずだという考え方が一般化していく。教育とは、苦難を乗り越えることであるという考え方の萌芽がここにある。第三に、社会的義務をみずから欲望することこそ美しい道徳であるという態度は、中世から近代へと引き継がれた。公権力によって私的なものである身体を矯正していくことに躊躇しない近代の成立の経緯を論じた。第四に、騎士の階級文化であった世界を、普遍的で理想的な身体文化として再定義してしまったのが近代であったことを示した。この結果、内発性は創出されなければならないという近代教育の核心が生まれた。そして競技は、不平等のなかに相互尊敬をつくりだすものから、平等の中に勝負によってヒエラルキーをつくりだすものへと、近代において転化したことを概観した。
     以上の議論を通じて、近代以降のスポーツと教育が抱える問題点は、近代以前にルーツがあることが多く、これを解決するには、射程の長い歴史的視点が必要であることを主張した。
  • 鈴木 純子, 中房 敏朗, 松井 良明
    スポーツ史研究
    1998年 11 巻 57-71
    発行日: 1998/01/01
    公開日: 2017/03/18
    ジャーナル フリー
  • 山本 教人
    スポーツ社会学研究
    2010年 18 巻 1 号 5-26
    発行日: 2010/03/20
    公開日: 2016/10/05
    ジャーナル フリー

     オリンピックメダルやメダリストが、メディアによってどのように描かれているのかを物語の観点から明らかにするために、1952年ヘルシンキ大会から2008年北京大会を報じた「朝日新聞」の記事を対象に、内容分析を行った。
     我が国のメダリストに関する分析から、次のことが明らかとなった。メダルの多くが体操、柔道、レスリング、水泳などの種目で獲得されていた。近年、オリンピック新種目での女子選手の活躍が顕著であった。多様な企業に所属する選手が増加傾向にあった。
     オリンピックでメダルを獲得することは、我が国の国力を世界に向けて示すことであり、メダリストの養成は国策として報じられていた。1970年代前半までのメダリストのメディアイメージは、類い希なる「根性」の持ち主であり、メダリストには超人的な存在の名が冠せられた。精神主義を介してつながる、国家と個人の関係イメージを指摘できた。
     東西両陣営によるオリンピックを通した国力の誇示、オリンピックの商業主義が進行する状況で、商業資本を利用したメダルの獲得は、ますます国策として位置づけられるようになった。この時期のメディアは、プレッシャーに負けず実力を存分に発揮する選手を理想のアスリート像として提示した。
     1990年代前半のスポーツをめぐる状況の変化のなかで、新しいタイプのメダリストがメディアに登場した。この時期の報道は、メダリストの個人情報に焦点化したものが多く、彼らをひとつのロールモデルとして位置づけているように思われた。このような報道においては、国策としてのメダル獲得と、メダリスト個人の体験はつながりを失ったものとしてイメージできた。しかし時に、選手の振る舞いや言動を通して、国家や組織から自由ではないアスリートの姿がメディアに描かれることもあった。スポーツの商業主義化やメディアの多様化は、今後、国策としてのメダル獲得とメダリスト個人の関係をますます複雑・多様化すると考えられた。

  • 廣瀬 通孝, 山崎 浩子, 月尾 嘉男, 大橋 力, 原島 博, 伊東 順二, 菅野 嘉則, 水島 能成, 河口 洋一郎, 竹村 真一
    日本バーチャルリアリティ学会誌
    1998年 3 巻 1 号 5-31
    発行日: 1998/06/25
    公開日: 2022/11/10
    解説誌・一般情報誌 フリー
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