本稿の目的は、身体とスポーツがどのような近代的陥穽に陥ったか、という問題について、前近代的な視点を用いて近代を逆照射することにより、明らかにすることである。
そこで本稿では第一に、西欧文化史の個性をいち早く作り上げたギリシャ・ローマ時代まで遡り、身体と学びの原初形態について概観した。そこでは、美しさに恍惚となるエロス的な関係性のなかに、教育的機能を含ませ、世界への知を深める営みとしての学びがあった。第二に、封建社会とキリスト教が独特の結びつきを見せた中世の騎士道において、試練や苦痛を乗り越えてこそ、その先にロマンスや幸福を獲得できるはずだという考え方が一般化していく。教育とは、苦難を乗り越えることであるという考え方の萌芽がここにある。第三に、社会的義務をみずから欲望することこそ美しい道徳であるという態度は、中世から近代へと引き継がれた。公権力によって私的なものである身体を矯正していくことに躊躇しない近代の成立の経緯を論じた。第四に、騎士の階級文化であった世界を、普遍的で理想的な身体文化として再定義してしまったのが近代であったことを示した。この結果、内発性は創出されなければならないという近代教育の核心が生まれた。そして競技は、不平等のなかに相互尊敬をつくりだすものから、平等の中に勝負によってヒエラルキーをつくりだすものへと、近代において転化したことを概観した。
以上の議論を通じて、近代以降のスポーツと教育が抱える問題点は、近代以前にルーツがあることが多く、これを解決するには、射程の長い歴史的視点が必要であることを主張した。
抄録全体を表示