古代東北の城柵は7世紀中葉から9世紀初頭まで,東北政策の変換点にあたる4つの時期に集中して造営された。まず650~660年前後の渟足・磐舟柵は阿倍臣の北征ともからみ,北方交易や大陸からの玄関口としての機能も求められたものと想定される。7世紀末の郡山II期官衙は地域支配の中心行政府として造営された。
第2段階の720~730年前後は奥羽両国の国府(級)として多賀城や秋田城が,またいわゆる天平の五柵が大崎平野に造営された。大崎平野への城柵集中は,郡評制施行地域の北縁に防衛ラインを形成し,移民の保護や支援,夷俘と移民との間に予想される軋轢防止が目的であった。そして夷俘対応の城柵と公民対応の郡家とを共存させるきめ細かな二元支配が行われていた。
第3段階の760年前後は桃生城・雄勝城・伊治城が造営され,建郡と直接移民の管理保護が目的であった。このとき同時に多賀城や秋田城も改修工事がおこなわれている。
第4段階は800年前後で,胆沢城・志波城・払田・城輪の新城柵造営,奥羽両国府の整備改造,桃生城や伊治城など旧来の城柵の統廃合という大規模な城柵の再編が行われた。奥羽支配の中でもっとも積極的な延暦期の版図拡大政策によるものであった。
その後徳政相論による行政改革にともなって,9世紀半ばには多賀城・宮沢(玉造柵)・胆沢城・城輪(出羽国府)・払田(第二次雄勝城)・秋田城の6城柵に集約されるようになる。
6城柵体制は,広域各地の課題に分担対応することが目的のひとつであり,また国府直轄下より北では郡家にかわる広域支配を行うのも大きな役割であった。これは国家側の積極的な軍事・移民政策が転換,中止を余儀なくされ,令制郡施行の貫徹が放棄された結果であり,城柵が衰退する10世紀中葉まで奥羽支配の基本構造をなしたのである。
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