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クエリ検索: "王子神"
120件中 1-20の結果を表示しています
  • 吉川 需
    造園雑誌
    1948年 12 巻 2 号 14-17
    発行日: 1949/04/01
    公開日: 2011/04/13
    ジャーナル フリー
  • 高田 知紀, 桑子 敏雄
    日本都市計画学会関西支部研究発表会講演概要集
    2016年 14 巻 105-108
    発行日: 2016年
    公開日: 2017/05/31
    研究報告書・技術報告書 フリー
    本研究は,「ある土地において信仰上の重要な役割をもつ神社は,自然災害発生時においても安全性を担保しうる立地特性を有している」という仮説にもとづいて,和歌山県下の398社の神社を対象に,その自然災害リスクのポテンシャルを検証することを目的としている.GISを用いて,津波,河川氾濫,土砂災害のそれぞれのリスクと神社との立地の関係を分析した結果,和歌山の土地に深いルーツを持つイソタケル系神社,熊野系神社,王子系神社の多くは,自然災害に対してのリスク回避性が高い立地であることを明らかにした.
  • 和歌山県下の398社を対象として
    高田 知紀, 桑子 敏雄
    実践政策学
    2016年 2 巻 2 号 143-150
    発行日: 2016年
    公開日: 2025/03/05
    ジャーナル フリー
    本研究は、「ある土地において信仰上の重要な役割をもつ神社は、自然災害発生時においても安全性を担保しうる立地特性を有している」という仮説にもとづいて、和歌山県下の398社の神社を対象に、その自然災害リスクのポテンシャルを検証することを目的としている。GISを用いた分析、および現地調査を通して、津波、河川氾濫、土砂災害のそれぞれのリスクと神社の立地との関係を分析した結果、和歌山の土地に深いルーツを持つイソタケル系神社、熊野系神社、王子系神社の多くは、自然災害に対してのリスク回避性が高い立地であることを明らかにした。特に、和歌山県において古代から信仰上の重要な意味をもつ王子系神社の立地特性は、津波、河川氾濫、土砂災害のいずれの災害リスクも回避しうるものであることを示した。この研究成果は、伝統的に、神社の立地には災害リスク対応という人びとの意識が反映されていることを意味しており、今後の防災・減災計画を検討するうえでふまえるべき重要な知見となる。
  • 三木 理史
    交通史研究
    2006年 59 巻 85-86
    発行日: 2006/04/01
    公開日: 2017/10/01
    ジャーナル フリー
  • 加藤 千晶, 重枝 豊
    日本大学理工学部理工学研究所研究ジャーナル
    2018年 2018 巻 142 号 142_11-142_18
    発行日: 2018年
    公開日: 2018/10/06
    ジャーナル フリー
    In the late 17th century, feudal loads played a major role in spread Gongen-style buildings through provincially area. This paper considered it from the analysis of the buildings how feudal loads received Gongen-style. It became clear that Gongen-style building built by feudal lords did not conform to the constitution that the Shogunate including main shrine, stone-hall, and and votive offering hall formalized, although it was considered that there was an example of the Shogunate which made a model of it.
  • 馬谷原 武之, 小室 明彦, 山岸 幸矢
    神奈川自然誌資料
    2019年 2019 巻 40 号 103-106
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/09/01
    ジャーナル フリー
  • 麻布十番商店街を事例として
    白田 順士, 大村 謙二郎, 藤井 さやか
    都市計画論文集
    2012年 47 巻 3 号 715-720
    発行日: 2012/10/25
    公開日: 2012/10/25
    ジャーナル フリー
    開発圧力が高い東京都心部に位置し、一方で家族経営型店舗が多く現存する伝統ある麻布十番商店街に着目し、周辺都市環境が変化し商店街の役割が変化している中で、家族経営型店舗がそれに対しどのように対応し経営を維持しようとしているのかについて整理・分析する。研究の方法としては、商店街内の家族経営型店舗の商店街環境変化に対する対応を把握することを目的とし、各家族経営型店舗の商店主(21名)に商売史と生活史を伺うオーラル・ヒストリー調査を採用した。研究の結果以下が明らかとなった。21店舗の家族経営型店舗は、変化対応型店舗、自然適応型店舗、影響無し型店舗に分類される。時代変化型店舗が対応した商店街の変化としては、女性客の増加、土産目的の増加、人通りの増加であり、一般的な対応としては低価格・小規模商品の新規開発である。自然適応型の店舗は、食べ歩き目的の増加に対応していた店舗であった。影響無し型の店舗は、近隣型商店であり、かつ経営者は高齢、後継者はいないといった状況であり、経営改革に消極的である。結論としては、食料品小売業店舗に関しては商店街の観光地化に適応しているものの、その他の業種に関しては対応は難しい。
  • 高橋 敏子
    史学雑誌
    1989年 98 巻 3 号 408-409
    発行日: 1989/03/20
    公開日: 2017/11/29
    ジャーナル フリー
  • 渡部 圭一
    日本民俗学
    2023年 316 巻 35-70
    発行日: 2023/11/30
    公開日: 2025/09/14
    ジャーナル フリー

     千葉徳爾の著作『はげ山の研究』では、主としてむらの共有地における柴・草の過剰な利用によってはげ山が形成されたことが明らかにされた。一方で千葉の議論では、個々のむら社会の資源管理と過剰利用の関わりが扱われていないことから、資源の共同管理の慣行を有していたはずのむら社会がなぜはげ山化を許容したのか、さらにそれに続く植生の回復がなぜもたらされたのかといった問題が解明されていない。

     これをふまえて本論文では、近江国蒲生郡南津田村(現在の滋賀県近江八幡市南津田町)という一つのむらのフィールドワークに基づき、特定の地域において過去の植生の様相とその利用の様相を復元し、さらにそれを規定する共同管理の規範の動向を考察した。

     南津田の山林の大部分を占める共有山にあっては、近世から明治期の低植生期には人口に対して燃料資源は著しく枯渇した状況にあったが、大正年間以降の植生回復期には徐々に利用の幅が広がってきた。はげ山の成因は柴刈りにおける強い採取圧が継続したことであるが、明治後期以降の人口減が要因となって植生が回復したことが明らかになった。

     ここで起きたはげ山化は、共有山の管理規範に内在する要因(柴刈りの自由さ)によるものであった。言い換えると、はげ山の形成やその維持は、資源管理の規範から逸脱した採取行動が行われたり、資源管理そのものが破綻して放縦な利用に陥ったりして起きたわけではない。南津田の場合、共有山の管理規範は一貫して保持されており、はげ山状態を成り立たせた柴の採取もその規範内の行動であった。

     千葉徳爾以来の研究にあって、はげ山とはあるべき植生を逸脱した、異常な状態とみなされてきた傾向がある。これに対して本論文では、はげ山は人を寄せ付けない山なのではなく、人が入り続けるからこそ植生が十分回復しない状態が継続するのであり、はげ山はあくまでむらの管理下にあったことを明らかにした。

  • 鈴木 啓助, 関 悟志, 栗林 勇太, 関本 景香
    市立大町山岳博物館研究紀要
    2023年 8 巻 39-58
    発行日: 2023年
    公開日: 2025/01/01
    研究報告書・技術報告書 フリー
    槍ヶ岳から北流し南転する高瀬川、針ノ木大雪渓を水源とする篭川、カクネ里氷河を源のひとつとする鹿島川、仁科三湖から流れ下る農具川、そして市街地や田畑が広がる平坦部には堰と呼ばれる人工の水路が縦横に巡り、それらは人々の営みを支えています。大町市はまさに「水のまち」です。 居谷里湿原や唐花見湿原がある東山も重要な水源のひとつですが、大町市に豊富な水をもたらす大きな水がめは北アルプスです。日本は偏西風帯に位置しているので、天気の移り変わりを支配する高気圧や低気圧は、一般に西から東へと移動していきます。特に寒候期には、チベット・ヒマラヤ山塊の南北に分かれていた亜熱帯ジェット気流が、日本の上空で合流するため、強い西風が吹くことになります。これらの西からの擾乱の移動に対して、南北に連なる北アルプスは障壁の役割を果たしています。そのため、北アルプスには寒候期の雪のみならず暖候期の雨も大量にもたらされます。北は白岳から南は槍ヶ岳までの北アルプスの峰々を西端とする大町市は、大きな水がめを背負っているのです。水は低きに流れることから、高いところに水がめを有する地理的立地が、大町市を「水のまち」たらしめる所以なのです。 本企画展では、我々を含めた生き物に不可欠な水が循環する仕組みから解き明かし、北アルプスなどの山岳で雪や雨などの降水量が多くなる理由、白いダムとしての山の雪の役割を解説します。次に、大町市における水と人との関わりについて、先史時代から現在へと辿り、先人が淡水魚を捕獲する際に利用した民具なども展示します。そして、今も町並みに残る水に関わる営みを紹介します。人々は水と密接に関わりながら生きてきましたので、水にまつわる民話もたくさん残っています。 2022年4月23日から7月18日までの間に開催された企画展「大きな水がめとしての北アルプス、そして水のまち大町」の展示内容を、ここに資料として記録します。
  • [記載なし]
    らん:纜
    1995年 29 巻 17-20
    発行日: 1995/09/30
    公開日: 2018/02/25
    解説誌・一般情報誌 フリー
  • *小柳 肇
    情報システム学会 全国大会論文集
    2013年 9 巻 F2-4
    発行日: 2013年
    公開日: 2020/05/25
    会議録・要旨集 フリー
    日本二百名山「二王子岳」は,千年以上も全国から厚い信仰を集めた,新発田市のシンボルである.信仰登山の目的は薄れたものの,最近は山ガールブームなどで,入山者数は復活の兆しを見せている.しかし,往復7時間の行程上トイレがなく,早急な整備を望む声は多い.ところが,これまで入山者数を把握する方法は,登山者が入山時に記入する入山届しかなく,帳面上の人数は,実際の入山者数に比べはるかに少ない. 整備計画を推進するため,コストを掛けずに登山者を正確にカウントする方法を検討し,実際に5か月間にもおよぶ調査結果から,入山者数と気象条件との相関を検証し,年間予測入山者数を推測した.
  • 中山 利恵
    日本建築学会計画系論文集
    2021年 86 巻 784 号 1827-1838
    発行日: 2021/06/30
    公開日: 2021/06/30
    ジャーナル フリー

    This paper analyzes the depiction of "ARAI" work-related documents from around the Edo period to clarify the objects used for "ARAI," the operators who performed the ARAI, and the respective activities involved in ARAI jobs.

    In this paper, in addition to the three historical documents described in the previous paper, 10 new documents relating to ARAI from around the Edo period were discovered. In Chapter 2, the contents of the description of ARAI in these 10 historical documents are exhibited in chronological order. In Chapter 3, based on the results of Chapter 2, the objects applied for ARAI are exhibited. Lye is used as a cleaning solution for the ARAI of wooden surfaces, and "Hot lye" has been used since the early 18th century. Also, "Buckwheat straw," which is more alkaline than rice straw, can be used as raw materials for lye. Further, it turns out that Sasara brush and scourer made of rice straw were used as tools to physically rub wooden surfaces. Similar tools are used in current era traditional ARAI. Chapter 4 described the ARAI operators. Until the mid 17th century, plasterers were performing the ARAI. However, it was revealed that at the end of the 17th century, a specialized craftsman named " Nanto Arai-ya Hachiuemon" existed during the repair of the Horyu-ji Temple. Thereafter, it was exhibited that the ARAI was carried out by professional craftsmen described as "Arai-ya" and "Arai-kata". In Chapter 5, the activity and types of ARAI are described.

    In Chapter 6, the transition of ARAI in around the Edo period is considered. For ARAI during the establishment period from Keicho to the Joo era (early to middle of the 17th century), only the straw, which is the raw material of the lye, and time and labor required for ARAI is depicted., and ARAI was conducted along with wall paintings by the plasterer.

    ARAI during the development period of the Kansei era to the Genroku era (late 17th century to early 18th century) accounted for approximately half of the historical documents at six items (five items in the Genroku era and four items from the Horyu-ji Temple document). The most specific descriptions of raw materials, chemicals, tools, and activities were written on the front gate of Horyu-ji Temple Oyuya in 1696. Also, "Arai-ya" and "Arai-kata," who are specialists in ARAI, first appeared in the recorded documents. During the maturity period from the Tenmei to the Tenpo eras (late 18th century to early 19th century), scaffoldings dedicated to ARAI were built. In addition, at Chion-in Temple in 1836, three types of specifications, "Arai with hot lye," "Arai by wiping," and "Wiping," were used according to the operating site, and a four-step operating unit price was specified. In the maturity period, it is considered that ARAI became generalized as an independent occupation, its specifications were established, and different ARAI types were explicitly displayed along with the unit price per lot for repair work of specific sizes.

  • 北アルプス山麓の人々に信仰された仏像からみた仏教信仰の変容
    清水 隆寿
    市立大町山岳博物館研究紀要
    2016年 1 巻 53-62
    発行日: 2016年
    公開日: 2020/10/01
    研究報告書・技術報告書 フリー
    本稿では、古代から江戸時代以前の北安曇地域(大町市及び北安曇郡)に残された仏教信仰の対象となった仏像について、当該地域の仏像の研究史を踏まえて集成・編年化するとともに、集成された北安曇地方に残された仏像を足掛かりに、中世に当地域を統治した仁科氏の創始と庄園の開始時期について推定を行うとともに、当該地域の古代から江戸時代以前の時代による様式の変化や仏像制作に関わる地域的特徴を述べる。
  • 史学雑誌
    1987年 96 巻 5 号 751-
    発行日: 1987/05/20
    公開日: 2017/11/29
    ジャーナル フリー
  • 石井 進
    史学雑誌
    1976年 85 巻 3 号 354-356
    発行日: 1976/03/20
    公開日: 2017/10/05
    ジャーナル フリー
  • 村松 健児, 真野 洋介
    都市計画論文集
    2008年 43.3 巻 181-186
    発行日: 2008/10/25
    公開日: 2017/01/01
    ジャーナル フリー
    本研究では、まず東京近郊における伝統的地縁組織から町会への変遷過程を明らかにする。次に地縁組織の活動、組織形態とその区域との関係を詳細に分析する地区として、十条地区、東向島地区、鹿浜地区の3地区を選定し、境界、地形、鎮守、地域活動に着目することで、地縁組織の活動、組織形態とその区域との関係を明らかにする。本研究の結論を以下に示す。十条地区では、伝統的地縁組織の境界や活動における特徴が、市街化や戦時期に行われた東京市町会整備によって失われてしまった。他の2地区では市街化や東京市町会整備があったにも関わらず、境界、鎮守、地域活動が組織変化の抑止力になった。このような過程を経ることで、地域空間と地縁組織の変遷過程の関係が、現在の町会の特徴に継承されているのである。
  • 京都府花折断層周辺の神社を事例として
    是澤 紀子, 堀越 哲美
    都市計画論文集
    2004年 39.3 巻 145-150
    発行日: 2004/10/25
    公開日: 2017/08/02
    ジャーナル フリー
    本研究では、京都市街地を通過する花折断層南部の周辺地域を取り上げ、地震情報としての活断層を含む自然環境の条件と、信仰の場としての神社の立地との関係性を探ることによって、立地場所の地形地質的要素が神社とその周辺における景観の様相に及ぼす影響を把握し、景観整備のための景観形成を評価する指標を探ることを試みた。神社立地の頻度分布において活断層付近の神社は、活断層沿いに分布する様相を呈していることが示された。地形と地質の構成を検討した結果、活断層周辺の神社景観を形成する自然環境の表出は、基盤岩と被覆層という地質条件により区別できる可能性が考えられ、地形的特徴となる断層崖の地質のうち隆起した被覆層は、神社立地と自然環境との関わりを考察する上で、両者のインターフェースかつ指標であると推察される。このような自然環境条件の指標は、その土地固有の自然と文化により構成されるものであり、建造物と一体化した神社の周辺環境すなわち景観を保存整備していく上で重要である。
  • 髙島 愼助
    四日市大学論集
    2025年 37 巻 2 号 394-385
    発行日: 2025/03/01
    公開日: 2025/05/20
    ジャーナル フリー HTML
  • 小澤 儀明
    地学雑誌
    1927年 39 巻 7 号 381-392_1
    発行日: 1927/07/20
    公開日: 2010/10/13
    ジャーナル フリー
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