近年,福岡県内の中世山城の実態調査が進み諸々のことが分かってきた。沖縄県で開催された日本考古学協会1998年度大会において「北部九州の中世山城」について発表する機会をえた。その時の論旨は中世山城に戦術的山城,里城(居館),戦略的山城,本城など各種の形態があることを述べ,それらが領国支配と深くかかわって変化することを述べた。
戦略的山城,本城については,都市の発達,城郭縄張りなど極めて多くの研究がなされ大きな成果を挙げている。一方,戦術的山城,里城(居館)が取り扱われることは極めて少ないように思える。里城(居館)の調査も早急に取り組まなければと思うが未だに資料の蓄積が十分でない。ここでは,戦術的山城と位置付けられる砦,端城,切寄せ,保障などと呼ばれ簡素で小規模な山城の果たした役割について明かにすることを目的とする。
織田信長,豊臣秀吉が在地領主層の家臣団化と常備軍化に成功していた時代の北部九州の実態を宗像氏支配下の福岡県若宮盆地の山城分布および縄張り調査の成果と天正9年立花勢と宗像勢が若宮盆地で戦った合戦いわゆる小金原合戦の文献をもとに,在地支配と戦術的山城の意義と山城と軍編成と言う視点から検証すると,天正9年段階では福岡県若宮盆地に所在する20余箇所の山城の管理運営は領主宗像氏ではなく各村落がそれぞれの山城に深く関わり,山城を中心とした軍事力は小規模在地勢力(村落)の手に掌握されていたと,見ることができる。
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