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クエリ検索: "筑豊御三家"
12件中 1-12の結果を表示しています
  • *河野 敬一
    日本地理学会発表要旨集
    2014年 2014a 巻 S1304
    発行日: 2014年
    公開日: 2014/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    1.はじめに-問題の所在-
     これまで発表者はメソスケールの地域を対象に、近代期の地方有力者(あるいは同族集団)の国土空間形成に果たした役割とそのメカニズムについて継続的に検討してきた。その結果、①明治後期になると、議会制民主主義の浸透とともに、地方有力者のもつ国土認識や構想実現のチャンネルを政治への関わりに求めていく側面があること、②一方で、伝統的な地縁・血縁による共同体的紐帯が、新たな動きを阻害する要素として働くことが資本・労働力の脆弱な中小の地方都市において顕著であり、その結果、地方有力者はコンツェルンや財閥のような多角的な経営形態に至らず、特定の分野に特化した役割を演じることが多いことが明らかにされ、これらの地域的適合性・普遍性の検討やメカニズムの妥当性検証の必要性が認識された。こうした問題意識をベースに、本研究では日本の拠点都市の成長とそれを主導した人間活動との連関を、近代日本の殖産興業・富国強兵政策を支えたエネルギー産出地として特殊な地域変容を成し遂げた福岡県筑豊地域を事例とし、地域の開発・変容のプロセスとメカニズムを地方財閥化した鉱業者(一族)の動きから明らかにすることを試みた。
    2.筑豊地域の成立と変容
     そもそも、筑豊地域の名称は、当該領域が明治前期の産炭地域として展開していく黎明期に旧国名である筑前・豊前の頭文字をとって命名された新地域名であり、日本近代化の過程の中で大きな意味を付与された領域である。筑豊地域は、優良な鉱産資源を背景に、政府の殖産興業政策のもとでの需要の増大に対応して産炭量を増やし、日清戦争以降急激に開発が進み、明治20年代後半には日本の産炭量の中で過半のシェアを占めるに至った。その過程で、遠賀川流域に飯塚・直方・中間・田川などの鉱業都市が成立した。「筑豊五郡石炭鉱区一覧表」等によると、明治中後期以降、一貫して、三井・三菱・貝島・安川・麻生の5社によって筑豊産炭量の過半を占めていたことも明らかになった。すなわち、筑豊地域における人口集中・都市化・産業化といった地域機能と景観の変化は、こうした東京を中心に財閥展開をした三井・三菱、および筑豊地域に本拠を置き地方財閥化していった貝島・安川・麻生といったグループの産炭事業に関連するものである。とりわけ、安川・麻生らの財閥化に伴う経営の多角化は、筑豊地域の産業構造の多様化に寄与した。
    3.地方財閥-
    筑豊御三家
    -の役割
     筑豊地域の炭鉱業をリードした人物として、貝島太助、安川敬一郎、麻生太吉、伊藤伝右衛門らが知られるが、このうち、貝島、安川、麻生は明治後期以降地方財閥化し「
    筑豊御三家
    」と通称されるに至った。本研究では、「
    筑豊御三家
    」と呼ばれる3有力者(一族)を対象に、彼らの日記、および事業所日誌などから三者の有機的つながり、トップの動きと意志決定のプロセス等の分析を行った。
     安川や麻生の日記を検討した結果、彼らの極めて活発な動きが明らかになった。貝島太助・安川敬一郎・麻生太吉は、それぞれ筑豊地域内の直方・若松・飯塚を事業の拠点としながら、単独あるいは共同で頻繁に東京に出向き、大臣や議員をはじめとする政界の有力者、三井・三菱など財界関係者らと会談あるいは政策に対する陳情等を行っている。安川の具体例を挙げれば、安川敬一郎50歳代の明治後期、年間100~150日を東京・大阪で過ごし、若松に在宅したのは多い年でも年間の過半になることはなかった。東京での政財界人との接触のほか、大阪・福岡財界との関係、下関・門司・筑豊地域内において貝島・麻生など筑豊鉱業家との諸問題に関する協議などが具体的な動きとして浮かび上がる。このような活発な動きを通じて、財源確保による自らの事業拡大のほか、遠賀川改修や石炭輸送賃の改善など、地域のインフラ整備などに寄与していった。
     こうした積極的な経済活動の一方、自らの政治への参加は必ずしも積極的とはいえない。従前の河野の研究で指摘した小諸・酒田の事例もそうであったように、政治活動への直接的参加は、人的資源を事業に集中せざるを得ないという制約により禁欲的であったとみられる。しかしながら結果として安川も麻生も業界や地域社会からの要請により議員として国政へ参画し公権力と相互関係を持ちながら、自らの立場からは事業の拡大、付帯的に地域の振興という役割を果たしていった。すなわち、明治後期以降、事業の端緒であり中核である石炭算出・輸送・販売事業が拡大するなかで、主力事業の補完に加え人材育成や厚生事業という趣旨から、安川は技術専門学校(現・九州工業大学)の設立や電気機械事業(現・㈱安川電機)の設立、麻生はセメント工業への進出とともに教育・医療関係(現・麻生グループ)など、地域の様々な可能性を生み出す機能の充実に寄与したプロセスが明らかにされた。
  • 森山 恵香, 松岡 高弘, 川上 秀人, 北野 隆
    日本建築学会計画系論文集
    2003年 68 巻 569 号 209-216
    発行日: 2003/07/30
    公開日: 2017/02/09
    ジャーナル フリー
    In order to define the architectural features of the residences of coal- mine owners at CHIKUHO, we analyzed the changes on the plans since the building of the first residence. As the subject of study, we chose the 5 residences, namely, the Former KURAUCHI RESIDENCE, the Former HORI RESIDENCE, the Former ASO RESIDENCE, the Former ITO RESIDENCE, and the Former KAIJIMA RESIDENCE. In conclusion, the following was indicated. In the site planning, there were the changes from a mass to the broader dispersion. Concerning the main entrance, the early one was contained in the main building, afterwards it was separated from the rest, and its function as the reception part was established. And the separate grand hall became a part of a bigger complex.
  • 宮地 英敏
    社会経済史学
    2011年 76 巻 4 号 613-615
    発行日: 2011/02/25
    公開日: 2017/07/18
    ジャーナル フリー
  • 三浦 壮
    社会経済史学
    2013年 78 巻 4 号 499-522
    発行日: 2013/02/25
    公開日: 2017/06/10
    ジャーナル フリー
    本稿は,戦間期宇部地域の工業化を検討することで,近代日本における地方工業化の特質を,主に鉱業資本家の投資活動から解明するものである。宇部地域の炭鉱および製造業の出資者はその多くが福原家の家臣団につながる家々であり,地域の共有財産である石炭鉱業で得られた利益金を再投資するよう,婚姻関係や,家同士の結びつきを利用した株式の所有を行っていた。投資動機としては,地域社会による地下資源の共有意識と地縁・血縁関係を基底とした,各鉱業資本家の製造業への投資に対する「連帯的強制」があった。新しい事業の拡大と利潤獲得は宇部社会の発展と同義の概念であり,地域社会への「貢献意欲」も重要な要因であった。鉱業資本家の所得構造を実証した結果,地元株式に集中して投資をしていたこと,地元株が中央株よりも高い利回りを維持し,特に石炭鉱業の利回りと利益総額は高いものであり,地域工業化の原資となっていたことが明確となった。
  • ―旧産炭地・筑豊地域の生活保護問題を中心に―
    農中 至
    日本社会教育学会紀要
    2012年 48 巻 21-30
    発行日: 2012年
    公開日: 2021/01/14
    ジャーナル オープンアクセス

      Mass unemployment caused great concern and hardship in the Chikuhou region of Fukuoka prefecture in the 1960s. With a rise in unemployment, problems of poverty created serious issues for local communities. The changes that occurred directly affected people's daily life and especially influenced their learning environment. The purpose of this study was to consider the effects on adult and community-based learning when the people were faced with insufficient public assistance that resulted in living problems. From this point of view, this paper analyzes learning activities among literacy circles of the Chikuhou region during the 1960s. In the town of Kawasaki, a number of autodidactic organizations were formed, through which many people learned about their living problems. They studied, for example, human rights, child education, child care problems, social security systems, and the right to education.

      The conclusions of this study can be summarized as follows: first, in the postwar period, learning organizations were working toward alleviating poverty and illiteracy to improve the future for children in the region: second, after the 1960s, people living in the coal mining areas became independent learners with respect to social problems.

  • 新鞍 拓生
    経済史研究
    2002年 6 巻 100-119
    発行日: 2002/03/29
    公開日: 2019/01/01
    ジャーナル フリー
  • 地理学評論 Ser. A
    1988年 61 巻 1 号 65-67,75
    発行日: 1988/01/01
    公開日: 2008/12/25
    ジャーナル フリー
  • 本田 昭四, 山下 良二, 新垣 洋史, 岩下 陽市
    住宅建築研究所報
    1986年 12 巻 243-255
    発行日: 1986年
    公開日: 2018/05/01
    ジャーナル オープンアクセス
     わが国では1880年代の近代炭鉱業の成立期以降,1960年代の炭鉱合理化に至るまでに大量の炭鉱労働者住宅が建設・供給されてきた。しかし1960年代のエネルギー政策の転換により,炭鉱業はスクラップ化され多くの炭鉱労働者は失業し,産炭地域より流出した。以後1970年代に入って,この地域の振興がさけばれるようになった。本研究は以上の80年間に企業により供給・建設された炭鉱労働者用住宅‐以下炭鉱住宅と略‐を対象としてその歴史的な変化発展の過程につき住宅政策及び住宅計画という視点から考察したものである。さて,炭鉱業においては資源と生産方式の制約から労働者の居住の場が限定される。また労務管理の必要から集団居住が強制された。わが国では,これらの集団住宅を古くは納屋,小屋,飯場とよんだが,以上の労使関係の展開からこの呼称は坑夫長屋,鉱夫宿舎,炭鉱労務者住宅と変化した。とくに戦中,戦後に建設された炭鉱労務者住宅が,戦後の民主化運動の過程で行政的に「炭鉱住宅」と呼称されるようになった。本報告は大きく2つに区分される。まず第I編では1900年から1960年までの炭鉱労働者用住宅の発生と変遷を文献資料と現存する住宅の現地調査にもとづき整理し,これと同時代の住宅政策や集団住宅計画の展開と比較研究する。これによって,わが国の労働者住宅の重要な部分である炭鉱住宅の政策・計画論上の特質について考察する。つぎに第II編では1960年以降の旧炭鉱住宅の滅失と再編・改良のプロセスについて調査研究を行っている。とくにこの期間に実施された「住宅地区改良事業」について実施された事例の分析を試みている。さらにいくつかの典型町のフィールドにして80年間の地域と住宅の変遷について通史的な考察を行っている。
  • 木庭 俊彦
    社会経済史学
    2007年 73 巻 4 号 353-376
    発行日: 2007/11/25
    公開日: 2017/06/09
    ジャーナル フリー
    本稿では,筑豊炭鉱企業(麻生商店)の販売および輸送活動を事例とし,1920年代の瀬戸内海において帆船海運業が存続した要因を究明した。瀬戸内海での帆船海運業は,筑豊炭鉱企業の自家輸送が展開する中で,船主兼船長である「一杯船主」という個人経営形態であった。筑豊炭の海上輸送を担った一杯船主は,輸送量および輸送時期の変化に柔軟に対応するという意義を持っていた。この一杯船主が有効に機能するためには,荷主との仲介者(「回漕店」)が必要であった。一杯船主による輸送は,一杯船主・回漕店・石炭需要家の三者の相互関係に基づいて,地域分散的にある程度構造化されていた。また,積出港には多くの回漕店が存在し,炭鉱企業に対して複数の選択可能性を残していた。以上のような帆船輸送における海運取引が,炭鉱企業と一杯船主間のスポット取引で発生する不確実性を低下させていたのである。1920年代の瀬戸内海においては,炭鉱企業(特に中小炭鉱企業)と個人経営形態の帆船海運業が相互依存的な展開をみせていたと考えられる。
  • 畠山 秀樹
    三菱史料館論集
    2000年 2000 巻 1 号 39-94
    発行日: 2000/02/01
    公開日: 2023/07/27
    ジャーナル フリー
  • 畠山 秀樹
    三菱史料館論集
    2009年 2009 巻 10 号 159-195
    発行日: 2009/03/20
    公開日: 2023/07/27
    ジャーナル フリー
  • 経営史学
    2012年 47 巻 3 号 3_58-3_89
    発行日: 2012年
    公開日: 2016/01/27
    ジャーナル フリー
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