南北に延びた長方形の箱型建築、規則的に並んだ窓。見知らぬ土地であっても、学校を見つけることはたやすい。
学制120年、大規模な文化的社会的地殻変動とともに、学校教育においても、今日までの教育制度や教育内容、指導方法、学校建築など、そのソフト面・ハード面ともに対象化される時代を迎えている。変動の時代にあっては、過去の制度をひきつり、現実的な対応を行いながらも、新しい価値を築く作業も同時に進めなければならない。それを矛盾や混乱と見るか、「生みの苦しみ」と見るか、その人の姿勢や想像力にかかっている。
言うまでもなく、学校建築はその時代の支配的な教育の論理の表現であり、それを支え、維持していく器である。こどもを能動的な学習の主体に据えることが言葉の上では繰り返し叫ばれようとも、今日までの学校建築のあり方は、教える側の時間と空間の組織された体系であり、その教室の規格ひとつを取り上げても、こども全員が教壇に向かって座り、一斉指導を受けることを前提とした広さしか確保されていない。
『眼の奥にある柔らかいものに、常に新鮮で素晴らしいものを送り届けたい。』(画家=
絹谷幸二
) ここに、環境が与える経験の質の大切さと意識を超えた感受の堆積、そして感性教育のあり方を見ることができるだろう。たとえ画一と機能主義の学校環境の中であっても、こどもが生きることによって中心と周縁、明解に分節化された空間の中に自然発生的に現れたアジール、共有する思い出の場所などのさまざまな出来事として空間の意味が発生してくる。「授業で勝負」という言葉に示されている教師の思い込み以上に、こどもの学校における生活世界が広がっていることは否めない。しかし、学校環境のすべてが「教育メディア」であるという観点に立てば、一日の大半を過ごす生活の場、豊かな感性を育む場として、より積極的に魅力ある学校環境づくりが行われて当然である。
これからの学校建築に求められることは多くある。生涯学習・情報化の対応、多様な学習形態を展開できるオープンスペース確保など、数え上げれば限りがない。しかし・何よりも大切なことは、こどもの身体性とコスモロジーが優先されることである。っまり、人と建築のかかわりのおける基本的な層としての、色とテクスチュアなどの視覚的・触覚的な感覚・多様な空間の様相とそこでの複雑な視線の交わり、光と闇のドラマなど世界とのざらざらした始源性を取り戻すこと、そして、通過点としての学校、未来のために今を虚しくするこれまでの学校の論理から、生きていることの臨場感と充足感を強烈に感じさせる場へ変容させることである。
今の学校建築に積極的な意味で「廃墟」を見る。誰が見るか。まずは美術科教師でなくて誰であろう。自在なカリキュラムの編成と日々の創意工夫ある授業展開の中で培われた美術科教師の鋭い感性と豊かな想像力が単に「展示活動を中心とする校内の美的環境づくり」だけに限定せず、広く学校建築や教育環境に熱い視線として向けられ、学校変革の新しい波を生み出すこと。それを期待するのは決して私だけではないだろう。
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