「竪穴建物」とは,地表面から竪穴を掘り込み,その地下空間を利用する半地下式の建物である。
規模は一辺2mから6m程度が過半であるが,中には10mを越す報告もある。その多くは12世紀後半以降に求められ,中世を通じた報告例がある。また日本列島には縄文時代以来,竪穴住居があるが,弥生,古墳時代を経て西日本で7世紀,東日本では10世紀ごろに断絶する。そのため中世の竪穴建物とは直接の系譜関係は想定しづらい。ただ,少数ではあるが北東北地方や博多に11世紀代の報告例もあり,竪穴住居との系譜関係は今後,検討すべき点である。
竪穴建物は,1982年に鎌倉遺跡群で報告されてから広く認知され,その後,列島規模の広範囲で報告される。各地の竪穴建物の構造は,柱によって上屋を支える構造,いわゆる柱穴建ちが主体であるが,それに対して鎌倉遺跡群は,竪穴底面に据えられた土台角材から隅柱や中柱を組み上げ,それにより内部空間を確保する木組構造が主体をなす。
本稿ではこの両者の相違を明確にするために,基本構造により分類をおこなう。これにより,鎌倉遺跡群の建物構造は,列島の中で特徴的な構造である可能性を提示した。そして,より詳細に構造を検討した上で,以下に続く,年代や建て替え状況から都市の土地利用についての考察を行なう。
鎌倉における竪穴建物の年代について,現在まで直接的な研究は見当たらない。筆者は遺構(竪穴建物)の重複から新旧関係を見出し,各遺構に含まれる最新の遺物を下限年代とした上で,重複する遺構群内で変遷を追った。その結果,鎌倉においては13世紀第2四半期ごろに出現し,下限は15世紀代と推測した。
その重複関係に着目すると,竪穴建物は建て替えに際しても大きく場所を変えず,同一の地点で繰り返し構築される。その限界が「区画」を表現するものと考えた。鎌倉の「海浜地区」は区画が存在しないと考えられていたが,検討の結果,可能性を示した。この区画こそが中世都市における土地規制の徴証であり,都市制度下にあったものと推察され,今後は都市論あるいは都市構造論へ発展すべき問題点だと考えられる。
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