フランス女流作家ジュディト・ゴティエの「蜻蛉詩集」あるいは「蜻蛉集」は、フランスにおいてよりもわが国の一部において、その出版せられた明治十年代の終りから知られて来た。理由は、「古今集」の序の仏訳に和歌八十八首の韻文訳乃至和歌的仏詩を加えた内容、第二にその韻文訳は日本人
西園寺
公望の逐語的散文訳を基としており、かつ、口絵意匠一切を受持ったのが同じ日本人山本芳翠であること、第三に、
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は後に政界の立者となり元老の最後を勤めて、明治から昭和の第二次世界大戦直前までの重要人物であり、山本も亦後に明治画壇の一方の統領となったという事実からである。さらに、第三の日本人光妙寺三郎とジュディト及び
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との結びつきも加わって、明治初期にパリに在った日本人の活動の一部を裏書し、浮世絵や工芸品が将来した日本趣味の一時期を画する文献としても、わが国人に当然関心を持たせた。
しかし「蜻蛉集」は、何よりも仏人ジュディト・ゴティエの発意になる、彼女の作品である。
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以下の貢献がどんなに大きかったにしても、日本人は要するにジュディトの協力者、助手、下受けに過ぎない。この事を念頭に置いて、ジュディトの立場から「蜻蛉集」を見なおしてみる必要がある。
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公望がパリ遊学中に「蜻蛉集」に手を貸したのは、その書のタイトル・ペイヂにも見え、わが国の
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伝がすべて触れているところ。そのくせ、具体的に何時どんなにしてなされたかは一向明かでない。小泉三申の問に対する
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の答には、戯曲を作る手伝いをしたとだけで、「蜻蛉集」の話は一切出ない。晚年の
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の記憶違いであるとは到底とり得ない。ジュディト側でも、彼女の自伝は記述がその時代まで及んでいなくて話にならず、非売品の私家版であったためもあり広く知られなかった此の書について、注意すべき資料は未だ見つけ得ない。ジュディト歿して六十年に近く、九十一歳で世を去った
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の死後もすでに三十六年を経た今日、今のところは推定仮説に依るほかはない。
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はジュディトに乞われて、日本和歌集著作のための材料選びを手伝った。ジュディトがそのような著書を出そうとしたのも、
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を知ったのが原因であったのかも知れない。
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は逐語訳を、日本語の読めないジュディトに提供し、その上で、(特に短歌の方では)ジュディトは自己の作詩の材料とすべくこれに手を加えた。この手を加えたものが、今日「蜻蛉集」の巻末に掲載の「
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訳」である。
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がこの下訳をしたのは、彼の十年にわたる在巴生活中の最後の一二年の事であろう。明治十三年十月に帰国した彼は、十五年三月には伊藤博文を団長とする憲法や議会制度調査の一行に加わって横浜を出、ドイツに主に滞在して、翌十六年夏に帰朝する。この時にもドイツから何度かパリへ行ったことは明かであるが、「蜻蛉集」との直接の関係は、明治十三年のパリからの出発の以前に切れたと考えてよかろう。
山本芳翠は明治十一年春にフランスに到着し、
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や光妙寺三郎の紹介でジュディトの知遇を得た。従って
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在巴の終りころから後に特にジュディトと近くなったと考えられる。ジュディトは
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の最初のパリ出発後に「蜻蛉集」を完成し、当初はもっと簡素な一般的な形でこれを出版しようと思っていたのを、小部数印刷の豪奢な私家版として世に送るに至った。日本的意匠を盛る上で山本というよい協力者を得たためもあったに違いない。
光妙寺三郎は
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とほぼ同時に着仏し、二年早く明治十一年帰朝する。当時からジュディトに近づいていた彼が、さらに十五年末から駐仏公使館書記官として再びパリで暮らすようになって、再会の上親密の度を加えたのは想像に難くない。彼がジュディトの愛人だとか若いつばめだとかいわれたという当時の風評を、晚年の
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は否定するが、一概に否定しきれぬものがある。ともかく、光妙寺の再度の滞仏中に「蜻蛉集」は完成したが、
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の第一次作業を基に、最後までジュディトに協力したのは光妙寺である。さればこそ彼への献辞が「蜻蛉集」の巻頭を飾り、かつ、その献辞に綿々の情趣があるのである。
「蜻蛉集」の日本語名の転写などには、不統一が多く、不行届、滑稽な誤りもある。
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には似合わぬ事であるが、おな彼も若年であり、参照すべき文献の乏しい異国での為もあったかも知れない。光妙寺や山本のこの方の嗜みは彼より浅かったであろうから、彼等に依るその後の改悪もあったであろう。しかし何よりも、ジュディトの考えや物好き、あるいは何処かで彼女が得て執拗に守って来た誤った知識に由来する不手際が大きかったと思う。「蜻鈴集」は、ジュディトの発意になる、その著書だと私のいう所以である。
そういう種々な、しかもそう小さくない誤りや欠点はあるものの、「蜻蛉集」は、ジュディト・ゴティエの日本趣味物の中では最もまともな作品であり、フランスにおいての日本趣味の最盛期において、誤った観念を与えることの最も少い書の一つであるとともに、日本人の心情と日本文芸との美を、それを理解し味う力を持つ人には、示し得たものだといえる。
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