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クエリ検索: "財津理"
75件中 1-20の結果を表示しています
  • もう一つのスピノザ-ドゥルーズ的な映画身体
    鈴木 啓文
    映像学
    2018年 100 巻 73-91
    発行日: 2018/07/25
    公開日: 2019/03/05
    ジャーナル フリー

    【要旨】

     従来、映画のショック体験がしばしば論じられてきた。対して、本論は触発し変様する映画身体の体験を考える。そのためにまず、ショック体験やイメージの強度的体験を重視するドゥルーズの『シネマ』とドゥルーズ的な映画身体論を確認する。そのうえで本論は、ショックを体験する映画身体とは区別される、触発し変様する映画身体を論じるため、ドゥルーズの身体の映画論からスピノザ的な身体論を掘り起こし検討する。身体の映画論のカサヴェテス作品を論じた箇所などには、触発し変様するスピノザ的な身体を見出せる。だが、思考論が主題である同論では、身体の触発と変様の経験のあり方や可能性が映画身体論的な観点から十分に論じられていない。そこで本論は、身体の映画論に潜在する身体の触発と変様や情動の揺れ動きといったスピノザ的な諸論点を引き出し、ドゥルーズとスピノザの議論と共に吟味する。そして最後に、情動の揺れ動きの観点からカサヴェテス作品の身体の触発と変様を分析する。とりわけ同作品の身体の疲労における情動の揺れ動きに着目し、情動の複数的な触発がもたらす情動の感受の仕方、つまり身体の組成の根本的な変貌を論じることで、触発と変様という映画体験の可能性を示す。

  • パリ国立オペラ座バレエ団のレパートリー伝承について
    安田 靜
    舞踊學
    1999年 1999 巻 22 号 93
    発行日: 1999年
    公開日: 2010/04/30
    ジャーナル フリー
  • 河本 英夫
    モルフォロギア: ゲーテと自然科学
    1994年 1994 巻 16 号 20-29
    発行日: 1994/11/03
    公開日: 2010/02/26
    ジャーナル フリー
    三木成夫の提示する形態の比較には, 独自のまなざしと息づかいがある. 叙述される事柄は, 多くの感心と半ばの躊躇で理解してしまうものが多い. にもかかわらず他の選択肢を思い浮かべにくいという必然さをもっている. それは否応のない迫力である. こまごまとした経験を飛び超えて, 一挙に原型を開示してしまうという方法のもつ, はるかな直接性にも一因がある. あるいは生命の誕生の現場を記す官能の緊迫感にも一因がある. だがこうした叙情には解消されない生命の難題をめぐって, おそらく三木成夫は一歩踏み出していたのである. この一点にしぼることにしたい.
  • ロレンス初期小説における形而上学の考察
    鳥飼 真人
    D・H・ロレンス研究
    2006年 2006 巻 16 号 3-15
    発行日: 2006/03/15
    公開日: 2009/08/21
    ジャーナル フリー
    The question of whether Lawrence's metaphysics can be found in his early novels is still a matter of controversy. The aim of this paper is to clarify the first development of Lawrence's metaphysics in his early works, The White Peacock and Sons and Lovers.
    The important point to note is that both the protagonists of these two novels, Cyril and Paul, execute paintings of Nethermere. This might suggest that Paul's painting is a repetition of Cyril's. However, their paintings are not the same. While Cyril's painting is a mere representation, Paul's is a repetition incorporating difference, which, as Gilles Deleuze says, is the antithesis of representation or“repetition of the Same.”Taking these points as a basis, this paper shows. that this difference is the metaphysical difference offered in Lawrence's work. Thus the world of representation that has been presented up to that point in Sons and Lovers is overturned by Paul's painting, which conceals difference under its repetition.
  • 矢澤 修次郎
    学術の動向
    2017年 22 巻 9 号 9_42-9_47
    発行日: 2017/09/01
    公開日: 2018/01/25
    ジャーナル フリー
  • 仮構作用の概念を手がかりに
    *中谷 和人
    日本文化人類学会研究大会発表要旨集
    2022年 2022 巻
    発行日: 2022年
    公開日: 2022/09/13
    会議録・要旨集 フリー
    本発表では、ベルクソンとドゥルーズに由来する「仮構作用」(fabulation:作話、想話)の概念を手がかりに、民族誌が今日もちうる創造的な力について考察する。具体的には、この概念を、いくつかの民族誌的素材とともに、1)真なるものとの関係、2)記憶、3)語りの多重性、という3つの観点から検討する。最終的には、仮構作用の本質的な一機能が、その語りに随う未来の私たちの創出にあることを指摘する。
  • 土場 学
    社会学評論
    1998年 49 巻 2 号 302-317
    発行日: 1998/09/30
    公開日: 2010/04/23
    ジャーナル フリー
    女性研究と男性研究を統合するものとしてジェンダー研究というアイデンティティが確立しつつある。しかし, この女性研究と男性研究がどのような意味でジェンダー研究として統合できるかということは今のところ曖昧なままにされている。
    しかしながら, 女性/男性研究 (運動) を誘導する「解放のパラダイム」の基本的論理を明らかにすることによって, それらの関係を簡潔に整理することができる。すなわち, この解放のパラダイムは, 大きく三つのタイプ-ジェンダー統一化のパラダイム, ジェンダー分断化のパラダイム, ジェンダー相対化のパラダイム-に分類することができる。そして, まず, ジェンダー統一化のパラダイムのもとでは, 女性/男性研究は, それぞれそのパラダイムのレベルで統一化されることで, それぞれのアイデンティティで閉じるよりは, ジェンダー研究というアイデンティティを確立しうる。 また, ジェンダー分断化のパラダイムのもとでは, それぞれそのパラダイムのレベルで分断化されることで, それぞれのアイデンティティで閉じ, ジェンダー研究というアイデンティティは確立しえない。さらに, ジェンダー相対化のパラダイムのもとでは, それぞれそのパラダイムのレベルで相対化されることで, それぞれのアイデンティティで閉じることも, ジェンダー研究というアイデンティティを確立することもできない。
    また系譜的に見ると, 「ジェンダーからの解放」のパラダイムは, ジェンダー統一化のパラダイムのもとで自立化し, ジェンダー分断化のパラダイムのもとで自閉化し, ジェンダー相対化のパラダイムのもとで自壊化するという否定弁証法的なダイナミズムを展開してきた。そして今やそれは, その解放の理念の出発点に立ち戻ったと見なすべきであろう。
  • 斉藤 綾子
    映像学
    2022年 108 巻 9-15
    発行日: 2022/08/25
    公開日: 2022/09/25
    ジャーナル フリー
  • *木村 建哉
    日本映画学会大会報告集
    2017年 13 巻
    発行日: 2017/12/09
    公開日: 2024/03/25
    会議録・要旨集 オープンアクセス
  • 郡司 ペギオ幸夫
    計測と制御
    2012年 51 巻 11 号 1029-1036
    発行日: 2012/11/10
    公開日: 2020/04/23
    ジャーナル フリー
  • ダンスの指導事例の比較検討とその考察
    柿沼 美穂
    メルロ=ポンティ研究
    2019年 23 巻 1-21
    発行日: 2020/01/31
    公開日: 2020/02/04
    ジャーナル フリー

      It is not so easy to choose appropriate words for our physical knowledge about human movement, so called, kinesthesia, or convert it into adequate data. We often have difficulty transmitting or sharing such information. However, we are faced with the necessity to do so in various scenes of life, for example, in the classes of physical education at school, or in some occupations requiring the high-level skills inherited from our predecessors. Then, we try to clear a hurdle with some special verbal expression to evoke our kinesthesia or dynamic sense of movement.

      In this research, I take up two representative ways of describing our dynamic sense of movement, namely, the linguistic expression of movement quality: “The Languages of Craft (Waza-Gengo)” proposed by Kumiko Ikuta as well as Rudolf Laban’s “effort.” And through the comparative study of contemporary dance class using those two linguistic expression, I discuss how they make different influence directly on our body movements, especially on its qualitative aspects. The discussion is based on the linguistic theory and “schéma corporel” of Merleau-Ponty.

      Thus the research leads the more effective communications of our physical knowledge with words, and hopefully sheds some light on the problem of the relationship between mind and body.

  • メロディ、ガラス窓、ズームそして因果性のない暴力
    小野 智恵
    映画研究
    2011年 6 巻 38-61
    発行日: 2011年
    公開日: 2019/08/01
    ジャーナル オープンアクセス
  • 三浦 光彦
    映像学
    2024年 111 巻 95-115
    発行日: 2024/02/25
    公開日: 2024/03/25
    ジャーナル フリー

    本稿では、ロベール・ブレッソンの1967年の作品『少女ムシェット』に関して、ブレッソンの断片化と呼ばれる手法の機能を分析する。断片化とは、空間や身体の一部をクロースアップで捉えたショットの連鎖によって物語を構築していく手法を指すが、この断片化が『少女ムシェット』におけるイメージとナラティブの複雑な関係の中でどのような機能を担っているのかを明らかにすることが本稿の目的である。まず、ブレッソンの断片化を因果関係の断絶を無効化するものと考えるジャック・ランシエールの議論を概観していく。次いで、ランシエールの議論が不十分であることを、『少女ムシェット』のオープニングシークエンスの分析によって明らかにするとともに、断片化はむしろ、潜在的な無数の接続可能性を孕んだイメージを生み出し、因果関係を断絶する機能を持つと主張するジル・ドゥルーズの議論を導入する。断片化に関して、ナラティブの論理に重点を置くランシエールと、イメージの潜在性を重視するドゥルーズを対置させた上で、オープニングシークエンスにおけるショットと全体の物語の関係性を分析していくことによって、断片化が担っている機能を詳らかにしていく。最終的に、ブレッソンの断片化という手法は、最初はその意味が曖昧であったショットが全く別のショットと有機的に接続されることによって、意味を生み出していくような複雑なネットワークを構築していると結論づける。

  • 根村 直美
    社会情報学
    2016年 5 巻 1 号 73-88
    発行日: 2016年
    公開日: 2016/11/22
    ジャーナル フリー

    本稿では,まず,押井守監督の映画『イノセンス』と欧米発の「サイボーグ映画」との比較考察を行った。そして,『イノセンス』には,「ポスト・モダン」状況の中で呼び起こされつつある理論的・思想的な懐疑がヒューマニズムへと回収されてしまうのを回避しようとする思考が認められることを明らかにし,そのような思考をポスト・ヒューマニズムと呼んだ。

     続いて,そうしたポスト・ヒューマニズムがどのような身体図式・イメージをうみだしているのかを分析することを試みた。『イノセンス』においては,人形の身体は人工的に構築されたものとして捉えられている。その身体図式・イメージは,映画全体の基調となっているのであるが,人形の身体は,実は人間の身体の表現に他ならない。すなわち,『イノセンス』は,その<社会的に構築されたもの>という身体理解を通じて,<有機体>としての<人間の身体>に付与された<神秘性>から我々を解き放ったのである。

     また,『イノセンス』の身体図式・イメージにおいては,構築される身体とは,<他者>と関わることにより立ち現れる具体的な状況において,画定された境界線をもつ。すなわち,その身体は,自分ではないが自分の一部であるような<他者>とのネットワークと相互作用がうみだす「偶発性」に基づくものである。しかも,そうした身体図式・イメージは,ヒューマニズムの枠組みには回収されえない<他者>への<敬意>とも結びついているのである。

  • 「経験のメタモルフォーゼ」素描
    高橋 勝
    教育哲学研究
    2006年 2006 巻 94 号 57-72
    発行日: 2006/11/10
    公開日: 2009/09/04
    ジャーナル フリー
  • 鑑賞から創作へ
    平田 公威
    社藝堂
    2023年 10 巻 119-134
    発行日: 2023年
    公開日: 2023/11/10
    ジャーナル オープンアクセス
    本稿は、ジル・ドゥルーズの最初と最後の主著と⽬される『差異と反復』と『哲学とは何か』を対象に、その芸術論を研究するものである。具体的には、まず『差異と反復』の芸術論を検討し、それが芸術作品との衝撃的な出会いを扱う鑑賞の理論であることを⽰し、その芸術外的な観点ゆえの限界を指摘する。そのうえで『哲学とは何か』を検討し、『差異と反復』を乗り越えるような、芸術内的な創作論の意義と内実を明らかにする。
  • ―政治的リアリズムをめぐって―
    乙部 延剛
    年報政治学
    2015年 66 巻 2 号 2_236-2_256
    発行日: 2015年
    公開日: 2018/12/15
    ジャーナル フリー

    政治理論は現実の政治に対してどのように関わっているのか。本稿では, 現在の政治理論が現実政治に即していないと批判する政治的リアリズムの議論を検討し, その射程と可能性を明らかにすることを目指す。バーナード・ウィリアムズ, レイモンド・ゴイスらを中心とした政治的リアリズムの潮流は, 過去10年ほど英語圏を中心とした政治理論の世界で大きな注目を集めているが, その主張内容には曖昧さが残り, 議論も続いている。本稿ではウィリアムズ, ゴイスが説く 「現実政治」 の曖昧さに注目し, それが通常政治としてイメージされる権力行使にとどまらない広範なものであり, 特定の領域への固定化に抗するものであることを明らかにする。現実政治の境界を定義できないという問題は, 現実と理論の二分法という, 政治理論で通常想定されてきた区分を揺るがすが, このことは, 必ずしもリアリズム政治理論の破綻を意味するものではない。むしろ, 固定不可能な 「政治的なもの」 を明るみに出すことを旨として, リアリズム政治理論はその独自性を主張することができる。

  • フーコー以降のセクシュアリティ研究に向けて
    金田 智之
    年報社会学論集
    2003年 2003 巻 16 号 126-137
    発行日: 2003/06/13
    公開日: 2010/04/21
    ジャーナル フリー
    “Coming Out” is a central concept in Lesbian and Gay studies. Ordinary, this word means that one tells her/his sexuality to others. But, In Lesbian and Gay studies, “Coming Out” has a special meaning. According to D. Altman, “Coming Out” is an action that liberates gay people from social oppression towards sexual behavior. However, Foucault later criticized this idea. He stressed our subjection to a web of knowledge/power which denies any possibility of liberation. Lesbian and Gay studies accepted Foucault's idea, and “Coming Out” was then regarded as an act of resistance. But this interpretation was a mistake. As a result of this acceptance, Lesbian and Gay studies have lost a concrete object for a politic of resistance. The aim of this paper is to reconsider the notion of power and “Coming Out”.
  • ロメール&シャブロルの議論を導き手に
    小河原 あや
    映像学
    2014年 93 巻 23-40,94-95
    発行日: 2014/11/25
    公開日: 2019/07/25
    ジャーナル フリー

      Hitchcock's famous use of long takes and a tracking camera in Rope (1948) was criticized by Truffaut and others as being a rejection of montage. Hitchcock himself considered the film 'pure cinema' - the movement of camera and performers creating new compositions and maintaining continuity. French Nouvelle Vague directors, Rohmer and Chabrol, noted the film's 'sense of continuous space'. This paper examines Rope, in reference to their analysis, and posits that the moving camera creates a moral dimension.

      The film uses long takes for its entire running length, resulting in a tension between the visible (the party) and the invisible (the hidden dead body). The tracking camera inevitably presents the spaces between characters and objects, emphasizes their relationships and implies their inner thoughts.

      Despite its seeming continuity, however, there are nine hidden cuts. Some of them are eyeline matches to represent the moral leader's viewpoint. Others are edited in the black space of a character's back or the upturned lid of a chest. By moving the camera in such moments to exchange two characters' positions, Hitchcock not only creates a 'sense of continuous space' but represents the 'transfer of guilt'. Thus, 'pure' cinematographic technique is used to represent morality.

  • 千田 洋幸
    全国大学国語教育学会国語科教育研究:大会研究発表要旨集
    2018年 134 巻
    発行日: 2018/05/26
    公開日: 2021/12/13
    会議録・要旨集 フリー
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