量子もつれは量子力学に特有の性質であり,系を構成する部分の間に特異な相互依存性(相関)を引き起こす.例えば2個の電子が1重項状態にあるとき,片方の電子のスピンをz方向に測って結果が+1なら他方の電子のスピンは必ず-1になり,またこの相関は測る方向に依らない.だから,もし2個の電子が遠距離にあって片方の測定の影響が直ちに他方に及ばない(局所性)とするならば,他方のスピンの値は測定とは無関係に予めどの方向にも確定していなければならない(実在性).ところが,量子力学では異なる方向のスピンの値が同時に確定した状態は存在しない.1935年にアインシュタインらは,このような本来の自然界の局所実在性の観点から,量子力学は実在する物理量の値を確定的に記述できない不完全な理論であると主張した.
長い間,この考えの科学的検証は困難だと思われていたが,1964年にベルが,局所実在性の下では許される相関が不等式の形で制限されることを発見する.このベル不等式の検証実験(ベル・テスト)は,これまで低エネルギー領域の光子や電子などのスピン相関の測定を通して行われ,その結果,局所実在性が否定されると共に,量子力学の相関の正しさが高い精度で確かめられてきた.またその研究過程で量子もつれに対する認識が深まり,現在の量子情報科学への扉が開かれたのであった.
自然界の非局所実在性を普遍的に確証するには,質量の大きな粒子や高エネルギー領域でのベル・テストが必須になるが,低エネルギーでのスピン測定と較べて高エネルギー物理現象での測定制禦が難しいことから,有意な検証実験は困難だと考えられてきた.しかし最近,高エネルギー物理学の手法を用いた量子もつれの研究がホットな話題になりつつあり,その中で欧州原子核研究機構の大型ハドロン衝突型加速器(LHC)を用いたATLAS実験が,ベル・テストを行う上で有望な候補になっている.
ATLAS実験は世界最高エネルギーの陽子・陽子衝突によって生成されるヒッグス粒子の測定や新粒子の探索が中心であるが,量子もつれ状態にあるB0中間子対も大量に生成されており,ベル・テストにはそのフレーバーの相関を用いる.B0中間子対のフレーバーは崩壊モードから測定され,崩壊時刻がスピンの測定軸の選択に相当し,その結果,フレーバー相関は電子のスピン相関と類似のものになる.
ベル・テストの完全な実施を妨げる「抜け穴」として,2個の粒子の測定が局所的に行われず因果的に独立ではなくなることや,スピン方向の測定選択が自由にできていない可能性が知られている.ATLAS実験でのB0中間子対のフレーバー測定ではこの局所性が十分に確保されており,また量子崩壊の本質的なランダム性のため,選択の自由性も保証される.したがって,ATLAS実験での測定が実現できれば,最高エネルギー領域での局所性と選択の自由性が満たされたベル・テストが可能になる.
実際,我々のシミュレーションによれば,1回のビーム衝突で陽子・陽子衝突が1回程度生じる実験において1 fb-1の衝突量のデータを得る場合には上の条件が満たされ,ATLAS実験でのベル・テストの実現性が示された.B0中間子対の非局所相関はCP対称性の破れとも関連しており,この検証実験を契機として,今後,量子もつれに基づく素粒子研究の新たな道が拓かれることが期待される.
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