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クエリ検索: "輜重"
391件中 1-20の結果を表示しています
  • 新美 〓太, 加藤 精
    中央獸醫會雑誌
    1928年 41 巻 4 号 305-329
    発行日: 1928/04/20
    公開日: 2008/10/24
    ジャーナル フリー
  • ―地形図から都市発達史を読む―
    *奥村 英継, 後藤 貴三恵
    人文地理学会大会 研究発表要旨
    2019年 2019 巻
    発行日: 2019年
    公開日: 2020/06/13
    会議録・要旨集 オープンアクセス
  • 山川 良三
    機械學會誌
    1926年 29 巻 105 号 25-42
    発行日: 1926年
    公開日: 2017/08/01
    解説誌・一般情報誌 フリー
  • 宮坂 亨
    日本釀造協會雜誌
    1980年 75 巻 12 号 972-973
    発行日: 1980/12/15
    公開日: 2011/11/04
    ジャーナル フリー
  • 日露戦争の軍事郵便エピソード
    服部 健一, 梶木 恒美
    近代日本の創造史
    2012年 14 巻 3-19
    発行日: 2012年
    公開日: 2012/12/10
    ジャーナル フリー
  • 吉村 典夫
    ドクメンテーション研究
    1983年 33 巻 5 号 237-243
    発行日: 1983/05/01
    公開日: 2017/10/05
    解説誌・一般情報誌 フリー
    企業における情報部門の新しいありかた,そのスタッフおよびスタッフの育成について述べられている。新しい情報部門と旧来の一般的な情報部門の機能を比較し,新しい情報部門には,既存情報の組合せによる情報の創出,記録化されていない情報の言語形態化,およびこれらによって得られた情報を組織としての他部門およびトップに積極的に提供する必要があるとしている。情報業務にあたるひとを,3種に区分し,それぞれの任務と性格をあげるとともに,情報業務にあたるひと全体および各種別について,それぞれの備えるべき資質および教育訓練のありかたについての意見が述べられ,情報と情報サービスの意義に触れている。
  • 原島 逸堂
    中央獸醫會雑誌
    1905年 18 巻 9 号 359-367
    発行日: 1905/09/28
    公開日: 2008/10/24
    ジャーナル フリー
  • 西澤 行藏
    細菌學雜誌
    1909年 1909 巻 166 号 573-586
    発行日: 1909/08/10
    公開日: 2009/07/09
    ジャーナル フリー
  • 植村 卷太郎
    日本畜産学会報
    1937年 10 巻 1-2 号 135-150
    発行日: 1937年
    公開日: 2008/03/10
    ジャーナル フリー
    以上研究調査したところを綜合すれば次の如く要約することを得。
    (1) 濟州島は有史前から馬が居たやうである。其後蒙古馬の血液を入れ,古くより官設牧場を設置して,所謂朝鮮の翼北と稱せられ,所要馬の大部を此地から補給した歴史ある馬産地である。其間自ら盛衰があつた。
    (2) 濟州島の地理的關係は地勢,氣候,土地,草木等何れも馬産に適し,農業状態は至つて粗放で,島中漢〓山を中心として楕圓環状の特有な土地利用帯を形成して居る。
    (3) 馬産の現況は,朝鮮總馬數の約40%,1平方k10.0頭といふ濃厚な密度を示して居るが,自然の儘の状態を續けて來た爲め質に於て矮小な島馬に過ぎない。
    (4) 濟州島馬の體形は東洋種型の比較的貴相に富み,後躯の發育不良,特有な島馬の形體をなし,蒙古馬とは稍々趣を異にして居る。よく石礫急坂
    の地を跋〓し,粗放の管理に耐え,性概ね温順であるが怯懦である。
    (5) 馬の體重は體高を顧慮し(胸幅+胸圍)×係數を以つて,馬格上有すべき體重の最小限を示し,之れにより榮養良否の境界とすることが出來るやうに思はれる。尠なくとも實驗の範圍内に於ける濟州島馬では(胸幅+胸圍)×1が應用し得られも。又
    輜重
    駄馬にありては,(胸幅+胸圍)×1.9が適當して居るやうである。
    擱筆に當り校閲を賜りたる増井先生に深厚なる謝意を表すると共に,研究上援助を與へられたる次の諸氏に感謝する。
  • 大日本窯業協會雑誌
    1907年 15 巻 173 号 194a
    発行日: 1907年
    公開日: 2010/04/30
    ジャーナル フリー
  • 十一月十七日獸醫學士會ニ於ケル談話筆記
    太田 槇太郎
    中央獸醫會雑誌
    1900年 13 巻 12 号 16-23
    発行日: 1900/12/28
    公開日: 2008/10/24
    ジャーナル フリー
  • 横山 又次郎
    地学雑誌
    1935年 47 巻 1 号 1-6
    発行日: 1935/01/15
    公開日: 2010/10/13
    ジャーナル フリー
  • 酒井 敏
    日本文学
    1996年 45 巻 11 号 27-36
    発行日: 1996/11/10
    公開日: 2017/08/01
    ジャーナル フリー
    今日まで看過されてきたが、日清戦争期の軍夫は、一般に「文明戦争」として認識されている日清戦争の矛盾を体現する存在である。歴史研究が最近になって注目したこの問題を、当時の文学テクストはそれぞれのスタイルで把握していた。例えば、江見水蔭の軍事短篇小説「軍夫の殺人犯(ひとごろし)」や「軍夫の幽霊」は、フォークロアとしてその実相に迫っており、泉鏡花の「海城発電」は、その構図において、広い視野から捉えた軍夫問題の核心をついているのである。
  • ―武田泰淳「廬州風景」論―
    王 洋
    論潮
    2020年 13 巻 1-13
    発行日: 2020/07/30
    公開日: 2023/10/02
    研究報告書・技術報告書 オープンアクセス
  • 北畠 顕太郎
    医科器械学雑誌
    1928年 5 巻 8 号 371-381
    発行日: 1928/02/20
    公開日: 2019/09/16
    ジャーナル フリー
  • 仲本 秀四郎
    ドクメンテーション研究
    1983年 33 巻 8 号 401-402
    発行日: 1983/08/01
    公開日: 2017/10/05
    解説誌・一般情報誌 フリー
  • 田村 倉造
    應用獸醫學雑誌
    1936年 9 巻 9 号 539-543
    発行日: 1936/07/20
    公開日: 2008/10/24
    ジャーナル フリー
  • 小林 儀一郎
    地学雑誌
    1917年 29 巻 6 号 361-370
    発行日: 1917/06/15
    公開日: 2010/10/13
    ジャーナル フリー
  • 中井 義明
    西洋古典学研究
    1989年 37 巻 12-22
    発行日: 1989/03/15
    公開日: 2017/05/23
    ジャーナル フリー
    Herodotus says that king Xerxes led his unprecedentedly huge forces and invaded Europe in 480 B C The size of the expeditionary force, including troops from Europe and non-combatants, was more than five million persons Other ancient sources agree that the great king's forces were vast in scale, but differ as to their number The German empire mobilized seven armies, i e, one million, five hundred thousand soldiers, on the western front at the beginning of the First World War The German troops were supplied, via thirteen railways, five-hundred-fifty trains a day Nevertheless, they were distressed by shortage of provisions Could the Persian empire, which had only primitive transport, maintain such huge forces for a long time and in a far distant country? Her transportation capability was meager It seems impossible that she mobilized and continued to supply such huge forces Modern historians doubt the size of the Persian forces which Herodotus gives They try to reduce his number to reasonable levels For that purpose they use two methods One is the philological method, used by many historians They criticize the texts and make known the organization of Xerxes' forces and the commanders' names There were three infantry divisions, three cavalry brigades, the Immortals, the guard troops and the non-combatants But, if one doubts about Herodotus' number, the size of the forces remains unknown The other method used employs logistics Gen Maurice and Gen v Fischer used this method They heed that the volume of provisions carried by the transport corps determined the scale of the forces This necessitates the fixing of some variables the mean speed, the size of the files, the carrying capability of pack animals and the rate of consumption of provisions What was the Persians' speed? It must have been that which reached the maximum value of the rate of flow There are some models for inquiring into the relation between the mean speed and the rate of flow I use Greenschields' model The outcome of my computation is that six parasangs a day is best, five a day next best and seven a day third best According to Xenophon's Anabasis, the Persians frequently marched six or seven parasangs a day When they crossed a bridge or river, their speed slowed Five parasangs a day was the usual speed So, I think that Xerxes' forces crossed the Hellespontos at the rate of five parasangs a day The rate of flow of animals was 500 4 heads/h, the rate of flow of infantrymen 1,429 7 persons/h What was the size of the Persian files? Gen v Fischer thought four files to be the usual size of the infantiy and two files that of the cavalry and transport corps I follow his view As the transport corps continued to cross for 7 days and nights, the total number of pack animals is 168,134 The transport corps carried 33,626,800 Ibs, consumed 31,945,460 Ibs, and could offer 1,681,340 Ibs to the combatants Such volume of provisions can maintain 41,000 infantrymen and 4,000 cavalrymen The number of an infantry division was 10,000 men, the number of cavalry brigade 1,000 men Xerxes' forces numbered 45,000 men Many historians think that the Persian fleet was far superior to the Greek Some believe in Herodotus' number, some modify his number to 1,000 or 800 or 600 Before the battle of Salamis, all Persian ships anchored in Phaleron bay I use this fact as a clue to estimating their scale I divide the length of the seashore by the width a trireme occupies in action The outcome is 300 ships The original fleet probably numbered about 400 ships My conclusion is that the land forces numbered 45,000 persons and the fleet 400 ships
  • -その名称と機能-
    下郡 剛, 川満 和, 仲村 真
    沖縄工業高等専門学校紀要
    2023年 17 巻 1-26
    発行日: 2023/06/29
    公開日: 2023/09/29
    研究報告書・技術報告書 フリー
    これまで都市開発等によって失われてゆくばかりであった戦争遺跡を、近年では文化財指定して保存してゆこうとする動きが高まってきている。1990年南風原町の沖縄陸軍病院壕群を嚆矢とするこの動向は、1995年の文化財保護法に基づく史跡名勝天然記念物指定基準が改正された後から徐々に加速してゆき、その後の20年間に限定しても、以下の戦争遺跡が次々と文化財指定された。奉安殿・忠魂碑(沖縄市、1997年)、沖縄戦関連宜野座村資料(宜野座村、2001年)、新川・クボウグスク周辺の陣地壕群(うるま市、2004年)、海軍特攻艇格納秘匿壕(宮古島市、2004年)、旧日本軍特攻艇秘匿壕・集団自決地(渡嘉敷村、2005年)、チビチリガマ(読谷村、2008年)、旧登野城尋常高等小学校跡奉安殿(石垣市、2009年)、掩体壕・忠魂碑(読谷村、2009年)、名蔵白水の戦争遺跡群(石垣市、2009年)、旧謝花尋常高等小学校跡奉安殿・本部監視哨跡(本部町、2009年)、161,8高地陣地(中城村、2014年)、旧西原村役場壕(西原町・2015年)、赤松隊本部壕(渡嘉敷村・2015年)などである。  他方で、学術研究の側からは、特に考古学の立場から戦争遺跡の研究が進んでおり、沖縄県立埋蔵文化財センターは、2001年以降、『沖縄県戦争遺跡詳細分布調査(Ⅰ)南部編』(1)、『同(Ⅱ)中部編』(2)、『同(Ⅲ)北部編』(3)、『同(Ⅳ)本島周辺離島及び那覇市編』(4)、『同(Ⅴ)宮古諸島編』(5)、『同(Ⅵ)八重山諸島編』(6)を6年連続で刊行、2015年には『沖縄県の戦争遺跡 平成22~26年度戦争遺跡詳細確認調査報告書』(以下、『沖縄県の戦争遺跡』)(7)も刊行している。  本稿執筆のまさしく最中、2021年10月30日には、「第32軍司令部壕の保存・公開を求める会」主催の第1回シンポジウムが開催されたが(『琉球新報』2021年10月31日)、これも戦争遺跡の保存と研究の進展の動向をうけてのことであろう。  第32軍は沖縄方面の守備を統括し、その司令部は、沖縄戦開始時、首里城の地下にあった。この地下壕内で沖縄の命運全てが決まっており、住民を無制限に巻き込む結果につながった摩文仁への軍司令部退却も、その作戦室にて決定された。以上を踏まえると、第32軍司令部壕は、沖縄戦の記憶継承の要衝をなす場所と言って良い。むしろ今まで何の進展もなかったことの方が不思議なくらいであるが、戦争遺跡の保存と研究は、今や時代全体の流れなのであろう。  さて、「ありったけの地獄を一つにまとめた」戦場という言葉がある。よく沖縄戦全体を示す言葉として耳にするのだが、正しくは米軍公刊戦史『Okinawa:The last battle』(8)中にて、現浦添市の前田高地の戦闘を表現した米軍兵士の言葉を、外間正四郎氏が『沖縄-日米最後の戦闘-』(9)に翻訳した際のものである。この前田高地の戦闘は2017年に映画『ハクソー・リッジ』として公開されるなどもし、沖縄戦の最激戦地のひとつとされている。  この戦場で戦った日本軍部隊のひとつに歩兵第32連隊の第2大隊があり、同隊は前田高地からの退却に失敗し、高地に閉じ込められたため、南部戦線を戦うことなく終戦を迎えた。結果として、隊長以下生存者が比較的多くおり、豊富な回想録が残されている。また、前田高地を含む浦添城跡一帯は1989年に史跡に指定された。そのため、戦争遺跡の最大の天敵とも言って良い開発等の原状変更ができない地域となっている。  本稿では、前に述べた戦争遺跡保存と研究の動向をうけ、豊富に残される回想録を駆使して、この後数百年も残ってゆくであろう前田高地の陣地壕群の解明に挑みたい。
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