小説・映画・コミックなどで形作られている平安時代のイメージはどのようなものか。光源氏や安倍晴明、在原業平たちがキャラクターとして登場し、平安の都は魔術と恋愛の舞台として立ち現れる。これら加工文化が再生産する平安のイメージに対し、学校教育はオリジナルと向き合うことで、相対化と新たな発見を導く場として機能する。そうした図式を思い描くことができるかもしれない。しかし、逆に相対化されるのは、教室の中で再生産される「オリジナル」という幻想であり、原典を読むことを根拠として再生産される平安イメージの偏向、あるいは隠蔽と排除の構図ではないか。加工文化がキャラクターや物語の類型性に依存しているのと同様に、教室で教え、学ばれる古典もまた、同様に加工された物語にほかならない。たとえば、天皇や性をめぐって顕著にあらわれる、平安時代を舞台とするライトノベルズやコミック、映画と、教科書との偏差をとおして、この問題を考えてみたい。
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