謎を引き受ける、謎を手放さない。こと村上春樹に対峙する場合、「作品は謎を回収していない」という紋切り型の批判に逃げ込まず、読み手は対象の不完全さを指摘する以前に、自らが捉えたものの精度を高めることに腐心すべきであろう。
『風の歌を聴け』の場合、多くの先行論は「この話は一九七〇年八月八日に始まり、一八日後、つまり同じ年の八月二六日に終る」という規定に縛られ、
小説
全体というよりも一九日間という〈物語〉に拘束されている。それは登場人物についても同じで、「僕」と「
鼠
」と「小指のない女」という表層のトライアングルに隠れた「三番目に寝た女の子」、「リスト」でいうなれば「得たもの」よりも、むしろ「最後まで書き通すことはできなかった」「失ったもの」に囚われなければならない。巧みな〈物語〉の搦め手から逃れることができれば、春樹作品は謎を隠蔽しているというより、ときに「説明的」ですらある。
偽作家ハートフィールドという派手な「嘘」と、「何も書けやしない」とこぼした「
鼠
」が拙いながらも「僕」の誕生日(クリスマスイブ)に送りつける
小説
と、この回想自体を構造化することが、〈物語〉から〈
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〉への解放(「象」が平原に放たれる)に繋がる。
タイトルの「風」とは、「
鼠
」の語る理想の
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論の中にある言葉である。それは「蟬や蛙や蜘蛛や風、みんなが一体になって宇宙を流れていく」というもので、この「風」は謎や空白というよりも、それらを全て包んだ虚無や虚空と呼ぶべきものである。春樹の文学は宇宙に吹く「風」という「虚空=void」(了解不能性)にはじめから対峙しており、本作を問題にするのは、膨大な作品群を読み説くための基点としたいがためである。
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