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クエリ検索: "集団墓地"
78件中 1-20の結果を表示しています
  • 平田 和明, 長岡 朋人, 星野 敬吾
    Anthropological Science (Japanese Series)
    2004年 112 巻 1 号 19-26
    発行日: 2004年
    公開日: 2004/07/14
    ジャーナル フリー
    鎌倉市の由比ヶ浜地域には大量の中世人骨が出土している静養館遺跡,由比ヶ浜南遺跡(単体埋葬墓),中世
    集団墓地
    遺跡(No. 372)および材木座遺跡の4遺跡があり,これらの出土人骨の刀創の特徴を比較検討した。刀創受傷率は材木座遺跡が最も高く65.7%であり,次に静養館遺跡が6.6%で,中世
    集団墓地
    遺跡は1.4%,由比ヶ浜南単体埋葬人骨は1.3%であった。刀創人骨のうちの斬創が占める割合は,静養館遺跡が100%,由比ヶ浜南遺跡が66.6%,中世
    集団墓地
    遺跡が75.0%,材木座遺跡が2.7%であった。一方,掻創が占める割合は材木座遺跡が82.3%で圧倒的に高く,中世
    集団墓地
    遺跡は2個体だけで25.0%,静養館遺跡と由比ヶ浜南遺跡の出土人骨には掻創は認められなかった。由比ヶ浜地域(前浜)は主として14世紀に中世都市鎌倉の埋葬地として使用されたと考えられるが,遺跡間および同一遺跡内の各墓抗間においても人骨の埋葬形態に差異があることが明らかであり,今後の広範囲な分野から更なる解析・検討が必要である。
  • 長岡 朋人, 静島 昭夫, 澤田 純明, 平田 和明
    Anthropological Science (Japanese Series)
    2006年 114 巻 2 号 139-150
    発行日: 2006年
    公開日: 2006/12/15
    ジャーナル フリー
    本研究の目的は,近年資料の蓄積が著しい関東地方の中世人頭蓋の計測を行い,そのデータと文献から収集した頭蓋計測値に基づき関東地方の中世人頭蓋の地域内変異を明らかにすることが第一点である。第二点目は,関東地方と北部九州・山口地方の中世人との比較から中世人頭蓋の地域間変異を考察することである。今回,計測した資料は,鎌倉~室町時代前期の鎌倉市由比ヶ浜南遺跡(単体埋葬墓),中世
    集団墓地
    遺跡(No. 372),極楽寺遺跡,室町時代後期の東京都鍛冶橋遺跡,丸の内遺跡から出土した成人男性頭蓋である。文献データとしては,鎌倉~室町時代前期の鎌倉市の由比ヶ浜南遺跡(集積埋葬墓),材木座遺跡,室町時代の北部九州・山口地方の吉母浜遺跡から出土した成人男性頭蓋の計測値を引用した。関東地方の中世人頭蓋は長頭・低顔・歯槽性突顎の傾向が強く,その特徴は他の時代には認められないほど顕著であることが分かった。特に,極楽寺遺跡,材木座遺跡出土の中世人でその特徴が著しかった。関東地方の中世人の頭蓋形態は時期とともに変化し,中世の後期人ほど江戸時代人や現代人との類似性を示した。また,北部九州・山口地方の中世人頭蓋も長頭・低顔・歯槽性突顎を特徴とするが,関東地方のいずれの中世人に比べても現代人頭蓋に類似することが分かった。
  • 静島 昭夫
    Anthropological Science (Japanese Series)
    2007年 115 巻 1 号 15-23
    発行日: 2007年
    公開日: 2007/07/07
    ジャーナル フリー
    本研究は鎌倉市由比ヶ浜中世
    集団墓地
    遺跡〈No. 372〉からの出土人骨について,上顎洞内面を観察して骨壁状態の病理形態学的分類を行い,さらに出現していた骨病変の頻度について分析を行ったものである。上顎骨の左右あわせて809個のうち,骨吸収,骨増殖など合わせて56.1%の上顎洞内の骨壁で骨病変が認められた。骨吸収を示す小窩が最も多く,次いで骨増殖を示す棘状のものが多かった。また残存するすべての骨壁の数2315面のうち,異常所見がある骨壁は全ての面を合わせて39.6%であり,最も頻度が高かったのは洞底面で57.0%であった。これらの骨病変のうち,重度の小窩は急性副鼻腔炎,骨増殖は慢性副鼻腔炎,孔は歯性上顎洞炎であると考えられ,急性および慢性副鼻腔炎は生活環境が影響するものと考えられるため,中世期に都市として発展した鎌倉の生活環境の一面を反映していると推測される。日本人の急性および慢性副鼻腔炎罹患者数は,様々な条件が重なって高頻度である,ということは耳鼻咽喉科領域でこれまでに述べられてきたが,中世日本人古人骨においても確認された。
  • *南 雅代, 中村 俊夫
    日本地球化学会年会要旨集
    2008年 55 巻 3B17 26-02
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/09/06
    会議録・要旨集 フリー
    これまで、鎌倉由比ヶ浜地域の遺跡から出土する大量の中世人骨は、数千人におよぶ死者を出したと考えられている新田義貞の鎌倉攻めの合戦(1333年)によって死没した人々のものと推察されてきた。我々はこれまでに、由比ヶ浜南遺跡、中世
    集団墓地
    遺跡から出土した人骨の放射性炭素(14C)年代を測定し、いずれの人骨試料も鎌倉幕府終焉より古い14C年代を示す傾向が見られることを報告した。しかし、埋葬されている人達は海産物を食しており、14Cの海洋リザーバー効果により、得られた骨の14C年代が実際の年代より古い可能性が考えられた。そこで、本研究では、モンテカルロ法を用いた海産物の摂取割合算出プログラムによりδ13C値、δ15N値からMarine%を算出し、Marine04/IntCal04データセットによるMarine混合曲線によって較正年代を求め、さらに確かな年代を算出する試みを行った。
  • *永迫 俊郎
    日本地理学会発表要旨集
    2019年 2019a 巻 P035
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/09/24
    会議録・要旨集 フリー

    はじめに  お正月を家庭で共に過ごしたご先祖様を墓へお送りする墓正月は1月16日に行われ,沖縄本島のジュルクンチに相当する風習である.新生活運動などに伴って簡略化された字がほとんどながら,沖永良部島の3つの字(知名町田皆・瀬利覚,和泊町国頭)には‘座る’(=宴会を開く)慣例が残っている.鹿児島大のCOC事業で現地調査に伺ううちに,葬制も字の成り立ちに密接に関わっていることを知り,2017,18,19年の3回に渡り墓正月に参加させていただいた.琉球と薩摩それぞれによる支配を経験し,地理的には沖縄に近い沖永良部には,沖縄系を基調に奄美系と本土系の文化が根付いている.葬制をめぐっては,明治時代に入ってから出された禁止令まで風葬をしており,その後埋葬に変わっても洗骨する改葬が続いていた.こうしたお骨を拝む先祖崇拝が島の心である.今回は3つの字の墓正月の最近の実態を中心に,そこから描かれる字の特性について報告する.

    1月16日の墓正月  1969年の火葬場の設置を機に土葬から火葬へシフトし,いつからか不明ながらジュルクンチの呼称が墓正月に変容した.1月16日の墓参りはどの字でも行うが,字をあげて座る慣例が残るのは次の3集落のみで,時間差があるためハシゴ調査が可能である.

    田皆:旧来の字では島内第2の人口を有し,字の南西側に整備された共同墓地がある.正午過ぎから1年間に亡くなった家庭を訪問するため,墓を共有する家族単位で座るのは午前10時前後からお昼前である.午前中の昇りゆく太陽の下ゴザを介して温もりが伝わる砂の上での宴会は,車両が通行できる道の両側に広がり,明るさや賑わいを感じられる.車座を囲む人数は多くて10数名,少なくて3-4名で,親戚や亡くなった家の墓をまわるなど流動性がある.ここでは,田皆小学校と田皆中学校の児童・生徒が墓を訪れるのが特徴的である.小学校は創意の授業と設定し,墓のある児童は自分の家族のもとへ,ない児童は担任に引率されて見学する.4つの小学校区からなる中学校では田皆に墓地がある生徒のみ加わる.

    国頭:旧来の字で島内最大の人口で,農林水産省農林水産祭のむらづくり部門で平成4年に天皇杯を受賞するなど農業で沖永良部をリードする集落である.他の2集落が墓を共有する家族単位で墓正月を行うのに対して,ここは墓地の中のシマミシドーあるいは研修館で,1年間に亡くなった人の家族の中での希望者と字の役員が執り行う合同慰霊式である点が特徴である.シマミシドーは死者に字とお別れをさせる場所で,一般には墓地内部のちょっとしたスペースに位置する程度ながら,国頭では壁の無いお堂を設えて法要が営めるほどである.2017年には前年亡くなった21人中7家族が参加し,ワネアバカのシマミシドー(110名出席)で,2019年には前年亡くなった25人中9家族が参加し,研修館(115名出席)で,14時から2時間に渡って墓正月の合同慰霊式が行われた.参加者は黒い喪服で,僧侶や神主を欠くものの,本土での一般的な法事と類似した雰囲気である.

    瀬利覚:旧来の字で島内第3の人口を有し,集落から南の海岸に下った砂丘上に立地する列状の墓地は島で一般的な形態である.1977年の沖永良部台風で一部被害を受けたものの,明治10-11年に

    集団墓地
    化する際に積み上げられた石灰岩の囲いが風情を漂わせている.15時半から16時過ぎにかけて,家族単位で墓へ向かい,墓地を共有する一族で宴会を行う.車座の人数は5-6名から最大では30名に達する.夕時ということで毎年BBQと決めている家もあり,日の入りや周りの家族の動向に気を配りながら,楽しい墓正月の宴は続く.墓正月とお盆の年2回家族と共に楽しい時間を過ごすことが,先祖崇拝やアイデンティティーの礎となっているに違いない.

    字の特性  隆起サンゴ礁からなる低い島である沖永良部島では,字の境界は小さな谷に過ぎない.その境界を越えて隣の字に行かないように,風葬墓は字境界の谷沿いにある洞穴に設けられていた.そこはヌンギドコロ(恐い所)と呼ばれ,現在でも頭蓋骨をはじめとした人骨が見られる風葬跡が至る所にある.カルスト地形からなる平坦な島で字の境界を明示していた風葬地は恐怖の対象でしかなかったが,明治以後の

    集団墓地
    は畏敬の対象へと変化したと評される.農業が盛んな沖永良部島は,奄美群島の中で真っ先に旧暦を捨て,伝統的な民俗行事もあまり残っていないのが実情である.そうした中で頑なに墓正月で座り続けている三つの字に共通するのは,字(シマ)意識の高さであり,琉球色が強く島を牽引する勢力(人口規模)を有している点である.

  • 越智 郁乃
    宗教研究
    2012年 85 巻 4 号 1271-1272
    発行日: 2012/03/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
  • *ボレー ペンメレン セバスチャン
    日本文化人類学会研究大会発表要旨集
    2021年 2021 巻
    発行日: 2021年
    公開日: 2021/10/01
    会議録・要旨集 フリー
    甚大な被害を伴う災害では、多数の遺体をどのように扱うかという課題に直面する。東日本大震災ではこの課題に際して、レジャー施設や公共施設が仮設遺体安置所に、空き地が集団埋葬地に転用された。本稿では東日本大震災の事例から、「日常」と「災害」の死の管理との関係を人類学的に分析し、大量死の管理における文化の役割についての理解を深める。
  • 都市鎌倉を中心として
    鈴木 弘太
    日本考古学
    2006年 13 巻 21 号 81-101
    発行日: 2006/05/20
    公開日: 2009/02/16
    ジャーナル フリー
    「竪穴建物」とは,地表面から竪穴を掘り込み,その地下空間を利用する半地下式の建物である。
    規模は一辺2mから6m程度が過半であるが,中には10mを越す報告もある。その多くは12世紀後半以降に求められ,中世を通じた報告例がある。また日本列島には縄文時代以来,竪穴住居があるが,弥生,古墳時代を経て西日本で7世紀,東日本では10世紀ごろに断絶する。そのため中世の竪穴建物とは直接の系譜関係は想定しづらい。ただ,少数ではあるが北東北地方や博多に11世紀代の報告例もあり,竪穴住居との系譜関係は今後,検討すべき点である。
    竪穴建物は,1982年に鎌倉遺跡群で報告されてから広く認知され,その後,列島規模の広範囲で報告される。各地の竪穴建物の構造は,柱によって上屋を支える構造,いわゆる柱穴建ちが主体であるが,それに対して鎌倉遺跡群は,竪穴底面に据えられた土台角材から隅柱や中柱を組み上げ,それにより内部空間を確保する木組構造が主体をなす。
    本稿ではこの両者の相違を明確にするために,基本構造により分類をおこなう。これにより,鎌倉遺跡群の建物構造は,列島の中で特徴的な構造である可能性を提示した。そして,より詳細に構造を検討した上で,以下に続く,年代や建て替え状況から都市の土地利用についての考察を行なう。
    鎌倉における竪穴建物の年代について,現在まで直接的な研究は見当たらない。筆者は遺構(竪穴建物)の重複から新旧関係を見出し,各遺構に含まれる最新の遺物を下限年代とした上で,重複する遺構群内で変遷を追った。その結果,鎌倉においては13世紀第2四半期ごろに出現し,下限は15世紀代と推測した。
    その重複関係に着目すると,竪穴建物は建て替えに際しても大きく場所を変えず,同一の地点で繰り返し構築される。その限界が「区画」を表現するものと考えた。鎌倉の「海浜地区」は区画が存在しないと考えられていたが,検討の結果,可能性を示した。この区画こそが中世都市における土地規制の徴証であり,都市制度下にあったものと推察され,今後は都市論あるいは都市構造論へ発展すべき問題点だと考えられる。
  • Anthropological Science (Japanese Series)
    2015年 123 巻 1 号 75-78
    発行日: 2015年
    公開日: 2015/06/20
    ジャーナル フリー
  • 土居 浩
    宗教研究
    2012年 85 巻 4 号 1269-1271
    発行日: 2012/03/30
    公開日: 2017/07/14
    ジャーナル フリー
  • Anthropological Science (Japanese Series)
    2019年 127 巻 1 号 45-51
    発行日: 2019年
    公開日: 2019/06/26
    ジャーナル フリー
  • 長岡 朋人, 平田 和明
    Anthropological Science (Japanese Series)
    2005年 113 巻 1 号 17-26
    発行日: 2005年
    公開日: 2005/07/13
    ジャーナル フリー
    鎌倉市の由比ヶ浜地域に所在する遺跡からは,これまで数千体の中世人骨がみつかっている。しかし,由比ヶ浜地域の多くの人骨は,頭蓋の集積墓から破損した状態で出土しているため,正確な性別判定は困難である。頭蓋の性別判定は,計測値に基づく判別分析が有効であるが,埴原(1959, 1981)や田中ほか(1979)の判別分析法を中世人骨に直接あてはめることは2つの理由から難しい。1点目は,従来の判別法は,頭蓋全体の計測値から判別式を導いているため,欠損部位が多くみられる中世人骨には実用性が乏しい。2点目は,従来法は現代日本人頭蓋からのデータを用いて導いた式であるため,頭蓋形態が現代人と異なる古人骨,特に長頭・低顔・歯槽性突顎を特徴とする中世人頭蓋の性別判定においては正確性に問題があると思われる。
    本研究では,鎌倉市出土の中世人頭蓋に基づいて性別判定の判別式を求めた。計測部位は,乳様突起など,破損した頭蓋でも遺残しやすい部位である。本研究で求めた判別式のうちの1つは,乳様突起長1項目だけに基づく式でも80%の的中率を上回っていた。また,計測項目を増やして判別式を求めた場合にはより高い的中率が得られた。本研究の判別式は,保存状態が悪い中世人頭蓋の性別判定に有効である。
  • 南 雅代, 中村 俊夫
    日本地球化学会年会要旨集
    2006年 53 巻 3B01
    発行日: 2006年
    公開日: 2007/11/01
    会議録・要旨集 フリー
    鎌倉市には多くの遺跡が存在し、これまでに大量の中世人骨が発掘されていることから、中世都市鎌倉の埋葬地として使用されたと考えられている。人骨の埋葬形態は遺跡間、また同一遺跡内の各墓坑内間においても単体葬、頭蓋骨集積葬、人骨獣骨混合葬といったように異なっていることから、身分の差による違いや、疫病や災害・戦による大量死と自然死の違い、土着民か否かという違いなどが指摘されている。そこで本研究においては、この違いの原因を明らかにするために、由比ヶ浜南遺跡、中世
    集団墓地
    遺跡から出土した人骨の14C年代、炭素・窒素同位体比を測定するとともに87Sr/86Sr同位体比を測定し、年代、食性、土着性の点において遺跡、埋葬形態の異なる人骨に違いがみられるかどうかを調べた。講演においては、87Sr/86Sr同位体比から得られる結果について主に報告する。
  • 野村 実
    史学雑誌
    1984年 93 巻 4 号 543-544
    発行日: 1984/04/20
    公開日: 2017/11/29
    ジャーナル フリー
  • 越智 郁乃
    比較家族史研究
    2018年 32 巻 92-118
    発行日: 2018/03/31
    公開日: 2019/03/31
    ジャーナル フリー
  • 長岡 朋人, 平田 和明, 大平 里沙, 松浦 秀治
    Anthropological Science (Japanese Series)
    2008年 116 巻 1 号 25-34
    発行日: 2008年
    公開日: 2008/06/30
    ジャーナル フリー
    中世人骨の形態的特徴の研究は,当時の人々の姿かたちを明らかにし,日本人の身体形質の時代的な移り変わりを解明するために重要である。本研究の目的は,中世人骨の四肢骨長に基づき身長推定を行うこと,中世人骨の身長推定に適切な推定式を検証すること,日本人の身長の時代的な移り変わりを再検討することである。資料は,鎌倉市由比ヶ浜南遺跡出土中世人男性59体,女性52体の上腕骨,橈骨,大腿骨,脛骨である。まず,各四肢骨長に基づき男性6種類,女性3種類の身長推定式から平均推定身長を求めた。次に,身長推定式を評価するために,男性6種類,女性3種類の各方法について,4長骨に基づく推定値の差異を分散分析で検討した。4長骨に基づく身長推定値の差異が小さい式は,男性では藤井の式,Trotter and Gleserのモンゴロイドの式,女性では藤井の式,佐宗・埴原の式であり,これらの式は中世人骨の身長推定に適していた。続いて,由比ヶ浜南遺跡の中世人骨に対して,藤井の大腿骨最大長の式に基づく身長推定を行い,他集団との比較を行った。その結果,男性では弥生時代人,古墳時代人との間に1%水準の有意差を認め,また,女性では弥生時代人との間に1%水準の有意差を,古墳時代人と近代人との間には5%水準の有意差を認めた。日本人の平均推定身長は古墳時代から明治時代の間に低くなる傾向が再確認された。
  • 石井 進
    史学雑誌
    1987年 96 巻 5 号 643-648
    発行日: 1987/05/20
    公開日: 2017/11/29
    ジャーナル フリー
  • ――ベトナムの非公定記憶を記憶する韓国NGO――
    伊藤 正子
    東南アジア研究
    2010年 48 巻 3 号 294-313
    発行日: 2010/12/31
    公開日: 2017/10/31
    ジャーナル フリー
    This paper aims to examine how reconciliation is developed through apologies towards damages by war, comparing the actions of nation-state, damaged areas and NGOs concerning the Vietnam War. The second aim is to consider official and non-official memories about Vietnam War both in the damaged country and the country that caused damages, further investigating the relationship between a variety of memories and political systems.
     During the Vietnam War, South Korea sent the second largest group of armed forces, but recently the Korean’s memories as heroic stories have been confused since Han-kyoreh magazine reported that Korean troops conducted mass killings.
     After 30 years, an ex-service Korean’s group visited the Ha My hamlet, Quang Nam Province, where slaughters occurred in 1968. They built a monument for the victims. But when it was completed, the group felt shocked about a poem on the massacre on the monument. After going back to Korea, they demanded revisions. The Vietnamese government, which was asked for revisions by the Korean Embassy, put pressure on the villagers, who finally covered the inscription.
     Vietnamese policy is to seal the past and look to the future as at present, the most important issue for the government is to procure development funds from other countries, and to maintain the legitimacy of the Communist Party through economic development. Therefore, the memories of the Ha My, whose villagers did not necessarily contribute to the Revolution, could not become an official memory. Further, those memories are not connected with nationalism. This point is the most different when comparing with the case between Korea or China and Japan.
     After the report by the Han-kyoreh, one Korean NGO started volunteer activities for Vietnamese survivors. Through those activities, some survivors have been healed, and for the sake of the Korean NGO, the memory of Ha My, which can never become official memory, is preserved in Vietnam.
  • 森本 岩太郎, 平田 和明
    人類學雜誌
    1992年 100 巻 3 号 349-358
    発行日: 1992年
    公開日: 2008/02/26
    ジャーナル フリー
    かつてMORIMOTO(1987)が報告した南北朝期における打ち首2例の追加として,1991年に鎌倉市比由ケ浜中世
    集団墓地
    から出土した同時代の壮年期男性頭蓋1例を提示する.この頭蓋は第1~4頸椎•舌骨とともに墓地に埋められていた.他の骨格部分はない.頭蓋には6個の刀創が見られる.うち3個は死の直前に受けたもので,前頭鱗右側を左前方から右後方に斜めに走って板間層に達する長さ45mmの刀創(a),右眼窩外側縁の骨をそぎ落とした刀創(b),右頭頂骨を前後方向に走って頭蓋冠表面と接線方向に浅く頭蓋腔に達した刀創(c)であるが,これらは浅く,直接死因ではなさそうである.残りの3個は,後頭骨右下項線をそぎ落とした刀創(d),右下顎枝後縁にほぼ水平に切り込んだ2個の刀創(e, f)である.後頭骨の刀創(d)は打ち首の時か死後のものかは分からないが,右下顎枝の刀創(e, f)は,後述する軸椎の刀創(i, h)とそれぞれ一致する.
    いっぽう頸椎には右後方から鋭く切り込んだほぼ水平に走る5回分6個の刀創が認められる.上方から順に,環椎の椎弓下縁をかすめて(9),軸椎歯突起の後部に達して止まる刀創(h),軸椎の椎弓上部と右上関節突起後部を切り軸椎体に達して止まる刀創(i),軸椎の棘突起を右後下方から切って椎弓内で止まる刀創(j),第3頸椎の棘突起•右下関節突起•椎弓•椎体を右後下方から切って左椎弓根で止まる刀創(k).第4頸椎の棘突起•右下関節突起•椎体下部を切り離して椎体の左1/4部で止まる刀創(1),である.
    上述のように環椎の刀創(g)および軸椎の刀創(h)は右下顎枝後縁の刀創(f)と,また軸椎の刀創(j)は右下顎枝後縁の刀創(e)と,それぞれ一致する.舌骨に刀創は見られなかった.
    打ち首された時の創傷は環椎•軸椎•右下顎枝に残る刀創(g+h+f)か,または軸椎の刀創(i)のいずれかと推測され,これは頸髄•右椎骨動脈を完全に横切し,致命的である.また軸椎•右下顎枝の刀創(j+e)および第3•4頸椎の刀創(k)•(i)は死後頭部を切り離した際に加えられたものと思われる.本例はたぶん手負いの武士が名を重んじ首を打たれたものであろう.
    江戸時代には「打ち首は頸の前皮一枚残して切るのが常法」と言われたが,古い日本の半切りによる打ち首の伝統の起源が南北朝期までさかのぼり得ることを示す好例として,先の2例とともに本例は注目される.
  • 黒田 日出男
    史学雑誌
    1984年 93 巻 4 号 541-543
    発行日: 1984/04/20
    公開日: 2017/11/29
    ジャーナル フリー
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