2016 年 2016 巻 90 号 p. 1-13
本稿では,ボボ・ジュラソでのホテル襲撃事件を事例とし,植民地行政のイスラーム認識とその認識が事件の捜査でいかに運用され,事件への対応がどのような結果を招いたのかを論じた。事件までの経緯の検討からは,襲撃者たちが既存のイスラームの権威とは疎遠であったこと,賃金労働者を巻き込むものであったことを指摘した。さらに,事件の中心人物たちは元衛兵のネットワークによって結節していたことを明らかにした。しかし,これらの点は,実際の捜査ではほとんど注目されることはなかった。事件の捜査の検討からは,連合総督が直接介入するトップダウンの捜査によって,現場の行政官の報告が度外視され,「外部」からの「影響」という想定に固執し,捜査が迷走したことを示した。さらに,対応としては,オート・コートディヴォワール首席行政官の独断による「行政的処罰」を高官たちが追認した結果,大モスクのイマームやハムダライ街区の有力者などが収監された。この両人のボボ・ジュラソからの追放によって,一方において,大モスクのイマーム位が植民地行政との距離の近さを要求されるようになり,他方では,ハムダライ街区内部での局所的な政治・宗教的状況の変化を引き起こし,これらが1940年代末以降のムスリム内部における対立関係の政治的状況を用意したことを明らかにした。