2014 年 52 巻 p. 1-4
南アフリカ共和国のネルソン・マンデラ元大統領が2013年12月5日に亡くなった。95歳だった。
晩年のマンデラは肺の感染症で入退院を繰り返し、2013年半ばには3カ月にわたる入院生活を送った。6月末には一時危篤が伝えられ、ジェイコブ・ズマ大統領がマプトで予定されていた国際会議への出席を急遽キャンセルするなど、事態が緊迫した。このときはいったん容体が持ち直したが、その後の公式発表ではしばしば「重篤だが安定した(critical but stable)状態」という表現が用いられ、予断を許さない状況が続いた。マンデラは9月1日に退院し、ジョハネスバーグの自宅に戻ったが、この退院は、回復したからというよりも、最期を自宅で迎えるためのものであった。ズマ大統領の声明によれば、マンデラは「家族に囲まれて、安らかに亡くなった」1。
12月6日にズマ大統領は葬儀関連の予定について、12月8日を「祈りの日」とすること、10日にジョハネスバーグのFNBスタジアム(2010年FIFAワールドカップの決勝戦会場となった「サッカー・シティ」の現在の名称)で公式追悼行事を行うこと、15日にマンデラが幼少期を過ごした東ケープ州クヌに遺体を埋葬すること、を発表した2。
マンデラはトランスカイ(現在の東ケープ州)で1918年に生まれた。1940年にフォートヘア大学を退学処分となり、その翌年、ジョハネスバーグに移り住んだ。そこでアフリカ民族会議(African National Congress: ANC)青年同盟の創設に関わり、以降アパルトヘイトとの闘いに生涯を捧げた。破壊活動共謀容疑で起訴され、1963年に始まったリヴォニア裁判後、1964年から1990年までの27年間を獄中で過ごしたが、マンデラはその間も人々から忘れ去られることなく、闘争のシンボルであり続けた。
1960年に非合法化されたANCは、アパルトヘイト体制打破のためには武力の使用もやむなしという立場に転換した。マンデラもその方針を支持したひとりで、ANCの軍事部門、民族の槍(Umkhonto we Sizwe、通称MK)の総司令官の肩書きをもっていた。しかし、強力な軍事力・警察力をもつ南アフリカ政府に武力で対抗することには限界があり、獄中のマンデラは1980年代後半から秘密裏に当時の政権との接触を試み、アパルトヘイトを終わらせるための対話の準備を開始した。1990年のマンデラ釈放後、民主化交渉がすすめられ、アパルトヘイト後の政治体制の基礎となる暫定憲法が制定された。民主化交渉での合意に基づき1994年に初めての全人種参加総選挙が実施され、ANCが大勝すると、その党首であるマンデラが大統領に就任した。
大統領としてのマンデラの功績は、何よりもまず、アパルトヘイト体制から非人種的民主主義体制(non-racial democracy)への体制移行をスムーズに着地させたことにあるだろう。民主化交渉においてマンデラ率いるANCは、「1人1票」の平等な参政権という原則については一歩も譲らなかったが、他方で白人の不安に配慮して、少数派政党の連立政権への参加を保障する「国民統合政府(Government of National Unity)」による体制移行に同意した。また、「真実和解委員会(Truth and Reconciliation Commission)」を設置し、真実を告白した政治的暴力の加害者に恩赦を与えることによって、「赦し」と「和解」を南アフリカ社会の再出発の基礎においた。南アフリカでアパルトヘイトが廃止された1990年代前半は、アフリカ全体で「民主化の雪崩」現象が起きていた時期であるが、そのうち少なからぬ国が選挙後に内戦に陥ったことを考えれば、南アフリカにおける「民主化」のかじ取りは十分にスムーズであったといえるだろう。
もうひとつ、マンデラが南アフリカの人々、そして世界に遺した重要な遺産として、1996年に制定された新憲法の人権憲章(Bill of Rights)がある。新たな恒久憲法の制定は、「国民統合政府」の最も重要な仕事のひとつであった。アパルトヘイト体制による重大な人権侵害の反省に立って制定された新憲法は、「世界で最も進歩的」とも評価される人権憲章を含むものとなった。たとえば「平等」の項目(第9条)では、人種差別だけではなく、性別、妊娠、婚姻上の地位、性的指向、年齢、障害、宗教、言語などを理由とする、幅広い範囲の差別が禁じられた。なかでも憲法で性的マイノリティへの差別を明確に禁じたのは、世界でも初めてのことであった。また、第27条は、誰もが医療、食糧、水、社会保障へのアクセスの権利をもつと定め、国家に対して、これらの権利の漸進的な実現のために立法その他の手立てを講ずる義務を課す内容となった。憲法第27条は、政府に抗HIV薬による治療の提供を求めるHIV陽性者運動の主張の拠り所となり、また高齢者、障害者、子どもを対象とする社会手当制度の拡大の背景となるなど、アパルトヘイト後の社会政策の方向性に大きく影響を与えてきた。
その一方で、人種融和や和解といった側面に比べると、アパルトヘイト体制のもとで差別・抑圧されてきた黒人の生活環境の改善については、マンデラの功績は限定的なものに見えるかもしれない。ANCは1994年の選挙公約「復興開発計画(Reconstruction and Development Programme: RDP)」において、住宅供給、水道・電気の普及、土地改革、教育制度や保健制度の改革など、野心的な目標を掲げていたが、1996年にマクロ経済戦略「成長・雇用・再分配(Growth, Employment and Redistribution: GEAR)」が導入されると、財政赤字削減が優先され、社会支出は抑制された。そもそも、経済・社会政策に関わることは、当時副大統領でマンデラ退任後に大統領となったタボ・ムベキに任されることが多かった。しかし、学校給食制度のように、マンデラ自身のイニシアチブによって導入され、その後定着した政策も少なくない。子どもに関わる政策は、マンデラが最も情熱を傾けた分野であり、6歳までの子どもと妊娠中の女性の医療費の無償化、そして公立小学校への学校給食制度の導入は、マンデラが大統領に就任して真っ先に取り組んだ政策であった。
マンデラは大統領を1期(5年)のみ務め、1999年に退任した。国家元首が権力の座に固執し、長期政権となるアフリカ諸国が多いなかで、マンデラの潔さは際立っている。
その後のマンデラは、おもに自身の名前を冠した財団を通じて社会活動を継続した。マンデラは、南アフリカのみならず、グローバルな開発課題に対しても積極的に発言した。たとえばHIV/エイズに関して、ロベン島の政治犯刑務所服役時の囚人番号にちなんだ「46664」キャンペーンを立ち上げ(2002年)、また2005年のホワイトバンド・キャンペーンでは、貧困は慈善ではなく、正義、人権、自由の問題であると力強く演説した3。
晩年のマンデラは、長い獄中生活によって奪われた私生活を取り戻そうとするかのように、1998年に再婚したグラサ・マシェル夫人と過ごす時間を第一に優先するようになった。マンデラが公的な場に姿を見せたのは、2010年のFIFAワールドカップ決勝戦が最後となった。
1994年の大統領就任演説でマンデラは「虹の国」を建設すると宣言した。マンデラが目指したのは、アパルトヘイト体制下で分断されていた黒人と白人をひとつの調和した国民(ネイション)に統合し、その誰しもが人間としての尊厳を尊重されるような社会をつくることであった4。それでは結局、「虹の国」は実現したのか。そう問われていま、「Yes」と断言するのは難しいといわざるを得ない。
2012年に起きたマリカナ鉱山での虐殺事件、近年頻発するアフリカ諸国出身移民への襲撃事件、白人への憎悪を掻き立てるような発言を繰り返すジュリアス・マレマ(経済的自由戦士〈Economic Freedom Fighters〉党首、元ANC青年同盟総裁)への一定の支持――これらに共通するのは、アパルトヘイト後の南アフリカ社会の底辺に取り残された人々の不満が背景にあることである。「黒人の経済力強化(Black Economic Empowerment: BEE)」政策によって、黒人富裕層・中間層が拡大する一方で、いまも貧しさから抜け出すことができずにいる人々は、もはや絶望に近い思いを抱えているといっても過言ではない。
2014年には民主化から20年の節目となる総選挙が予定されている。ANCはもちろん、他の各党も、選挙で票を獲得するために、マンデラの言葉やイメージを最大限に利用するだろう。それがうわべだけ、選挙のときだけのものにとどまらず、実質を伴うものとなるならば、南アフリカはいまからでも、「虹の国」に少しずつ近づいていくはずだ。