アフリカレポート
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論考
ウガンダ北部紛争をめぐる国際刑事裁判所の活動と地域住民の応答
川口 博子
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2017 年 55 巻 p. 36-46

詳細
要約

国際刑事裁判所(ICC)は、現地の社会的な特性を省みない応報的な処罰を指向しており、裁判のプロセスへの被害者の参加が限定的であるという批判を受けてきた。ウガンダ北部の紛争に介入した当初にも、現地社会の論理や価値観を無視しているという批判が強かった。一方、2015年に容疑者のひとりが逮捕されたことで、ICCは現地住民から目撃談や被害申告を集める活動を開始し、地域住民は好意的に応答している。ただしICCがその対象者として想定していた人びとは、多くの地域住民が認識していた紛争被害者とは異なっており、その乖離がおおやけに議論されることがないままに、対象者の範囲が拡大された。地域住民は多様な紛争経験をもち、彼らの社会関係はその経験と密接に関連している。本稿ではICCの活動プロセスを、地域社会の現状と住民の紛争経験に関する認識との関連のうえで明らかにし、その活動が地域社会に対してどのような意義をもっているのかを検討する。

はじめに

1980年代後半以降、サブサハラ・アフリカでは政府と反政府武装勢力による地域紛争が勃発し続けてきた。このような状況に対して、欧米諸国や国際機関は犯罪の責任者を放置せず、厳格に処罰することが平和の確立や国民理解につながると主張することで、積極的に人権侵害裁判に関与してきた[武内 2008]。

国際刑事裁判所(International Criminal Court:以下、ICC)は、1998年に開催された国連全権外交会議(ローマ会議)において国際刑事裁判諸規定(ローマ規定)が採択されて設立されたあと、2002年に60カ国以上がこの規定に批准・加入したことによって正式に活動を開始した。ICCはなによりもまず残虐行為の犠牲者のために設立された裁判所であり、不処罰の文化を終わらせることを目的にしている[東澤 2007]。つまりICCにとって、被害者の利害と同時に加害者への処罰はもっとも重要な関心ごとである。

ICCは活動を開始して以降、最初にウガンダ北部紛争に関する事態への介入を決定し、2005年10月に神の抵抗軍(Lord's Resistance Army:以下、LRA)の指導者5人に対する逮捕状を公開した。しかしながら介入以後、ICCは国家・地域の法を無視した応報的な処罰を加害者に科すことで、紛争当事者が必要とする和解や社会の修復を阻害しているという厳しい批判にさらされた[榎本 2005]。そのあとに続くコンゴ民主共和国などの事態に対する裁判のプロセスにおいては、被害者の参加が等閑視されているという問題が提起されている[Moffett 2015]。一方で、加害者と被害者をめぐって多様なカテゴリーが存在する紛争後社会の複雑な現実のなかで、被害者の参加が裁判に与える影響も懸念されている[Méndez 2016]。つまりICCは、発足以来、その崇高な目的として掲げた2点において、大きな課題を抱え続けている。これらの課題は、ICCが裁判における公正性・公平性を保ちながら、国家や地域社会に固有の法文化と、そこに暮らす人びとの社会関係や紛争経験に関する認識をいかにして受容することが可能かという問いでもある。これに答えるためには、まず地域社会の現状をつぶさに調査したうえで裁判のプロセスに対する地域住民の応答を研究する必要がある。

2015年1月、ICCによって逮捕状が発布されたLRAの旅団長であったドミニク・オグウェン(Dominic Ongwen)の身柄が、中央アフリカ共和国において拘束されたことで、ICCがウガンダ北部の事態に関して地域住民を対象にした証拠の収集と被害の申告を募る活動(以下、活動)を開始した。これは逮捕状の公表から10年後のことであったが、それよりもまずウガンダ北部紛争が勃発してから30年近い月日が流れていたということを忘れてはいけない。

本稿では、まずこの活動において、「目撃者」/「被害者」という対象者の条件が形成されていくプロセスを提示する。つぎに地域の人びとが彼らの紛争経験にもとづいて、いかにICCの前で語りうる者の条件を認識し、どのように地域社会のなかで共有していったかを分析するとともに、彼らが語ることができる紛争経験のあり方について考察をおこなう。そして、地域社会におけるICCの活動の意義について検討する1

1. ウガンダ北部紛争とICCの介入

1986年に現大統領であるヨウェリ・ムセベニ(Yoweri Museveni)が、国民抵抗軍(National Resistance Army:以下、NRA)を率いて首都を陥落させ、政権を奪取して以降、ウガンダ北部では20年にわたる地域紛争が続いた。前政権はウガンダ北部に暮らすアチョリという民族出身の大統領ティト・オケロ(Tito Okello)と軍人によって支配されており、彼らが北部に敗走し、NRAが追撃したことで、アチョリの人びとを巻き込んだ戦闘が開始された。1980年代後半に複数存在した反政府勢力は、政府軍に敗北または和平協定を締結したが、1987年に結成されたLRAはそれ以降も勢力を拡大していった。ウガンダ北部の人びとは、植民地時代の政策から生じたウガンダ南北の経済的格差や政治的軋轢によって、南部・西部に支持基盤をもつ新政府に対して懐疑的であったし、NRAによる暴力によって彼らの生活は深刻な危機に瀕していた。このため紛争勃発当初には、政府に対抗するLRAを支持する者も少なくなかったが、1990年代にはいって紛争が激化すると、LRAへの支持は次第に薄れていった。LRAは人びとに対して殺人、誘拐、性的奴隷化、身体切除、家屋への放火や略奪行為をおこない、誘拐された者は兵士、運搬人そして性的奴隷とされた。兵士として戦うことを余儀なくされた者は、地域に暮らす人びとを攻撃し、ときに殺害することを強いられた。

ウガンダ政府は1996年以降、ウガンダ北部住民の約90%を半強制的に国内避難民キャンプ(以下、キャンプ)に移動させたが、十分な保護を与えず、キャンプはたびたびLRAによる襲撃にさらされた。さらに紛争期をとおして、政府軍による虐殺や略奪も繰り返されていた。

ムセベニ大統領は2003年12月16日に、 ICCに対してLRAに関する事態を付託した。これをうけてICCの検察官は、2004年7月28日に、ウガンダ北部の事態全体に関する捜査を開始する決定を公表した。そして2005年10月13日にジョセフ・コニ(Joseph Kony)以下、ドミニク・オグウェンを含む5人の指導者に対して人道に対する罪と戦争犯罪について逮捕状を公開した。

しかしながらICCが逮捕状を公開するやいなや、ウガンダ北部の地域社会内外からICCに対する批判が相次いだ。そのひとつは、ICCの介入が2000年に施行された恩赦法(Amnesty Act 2000)2によって醸成されつつあった政府とLRAの信頼を脅かし、紛争を再燃させるというものであった[Refugee Law Project 2005]。実際に2005年からはじまった和平交渉では、2008年の時点で「最終和平合意(Final Peace Agreement)」を残すのみになったが、指導者のコニがICCによる訴追を理由にこれに調印することを拒絶した[杉木 2010]。もうひとつは、ICCによる応報的な刑事裁判よりも、修復的な要素をもつアチョリの「伝統的正義」による「赦し」にもとづいた和解の促進が、よりウガンダ北部の状況および社会や文化に適合しているというものである。「伝統的正義」とは、植民地期以前から存在するアチョリの首長らによって実施される殺人に対する賠償とそのあとにおこなわれる和解儀礼、あるいはそのプロセス全般、さらにアチョリに在来の儀礼による元兵士の受け入れを含んでもちいられる。ただしこの批判は、アチョリ地域に暮らす人びとというよりも首長らを支援したアチョリのディアスポラ、NGOや研究者によるものであり、「伝統的正義」に対する解釈や単語の説明も単一ではなかった[榎本 2007]。

そして地域社会の現実からは、紛争後の和解において「伝統的正義」が機能しているとはいいがたい状況がある。多くの元LRA兵士が誘拐され意志に反して戦闘をおこなってきたことから、元兵士による賠償の支払いは実施されていない。そもそも紛争期の混乱によって直接的な被害者と加害者を特定できないために、賠償の受け渡しを実践することそのものが困難でもある。実際には被害者性をまとう加害者が暮らす地域社会において、人びとは紛争期の経験を極力語らずに生活を続けている3

「伝統的正義」を支持する人びとは、ICCに訴追されているLRAの指導者たちにも適応可能であると述べてきた。しかし地域の人びとは、彼らの命令によって殺された人数が多すぎるために、賠償は事実上不可能であり、賠償なき「赦し」はありえないと語る。そして現在進行中のICCによる裁判を受容する傾向がある。以下の節ではこのような状況をふまえて、ICCが実施した活動のプロセスをみていくことにする。

2. ICCによる捜査活動の概要

オグウェンの身柄が拘束されて以降、ICCはウガンダ北部における活動を本格的に開始した。オグウェンは、2004年に発生したLRAによるルコディキャンプ(Lukodi IDP camp)への襲撃を指揮したとして、7つの訴因からなる罪への責任を問われていた。具体的には、3つの訴因からなる人道に対する罪(殺人、奴隷化、および身体に対する重大な過失致傷と苦痛)と4つの訴因からなる戦争犯罪(殺人、市民に対する残虐行為、市民に対する意図的な攻撃の命令、および略奪)である。2015年2月から活動を開始したICCは、2015年12月21日、オグウェンに対して新たに3つのキャンプへの襲撃に関する容疑を含める計70の訴因によって起訴した[ICC 20164

本稿では、ルコディキャンプ襲撃事件(以下、襲撃事件)をめぐるICCの活動について記述するが、そのまえに襲撃事件の概要について簡単にふれておこう。ルコディキャンプは、グル県の中心にあるまちから約12kmはなれたところに2000年に設立された。2004年5月19日夕方ごろから20日未明のあいだに、LRAによる襲撃によって少なくとも41人が死亡し、7000人が避難し、多数の人びとが負傷し、誘拐され、200件の家屋が焼失した[UN 2004]。

ICCは2015年2月からルコディ村を拠点に、地域の人びとを対象にした活動を開始した。以下では、わたしが2015年2月から10月にかけて滞在先であるルコディ村A準村(Sub-village)5において直接観察したICCの活動の概要について記述する。本稿では便宜上、ICCの活動期間を、①2月から3月にかけておこなわれたICCの外国人職員による裁判のプロセスに関する説明と「目撃者」と「被害者」の募集、②5月におこなわれたICCのアチョリ人職員による被害の申告に関する準備、そして③7月から10月にわたる被害の申告の実施の3つに区別する。すべての期間において、ICCは単独で活動したわけではなく、NGOの支援をうけた住民組織であるコミュニティ和解チーム(Community Reconciliation Team:以下、COREチーム)6による協力をえている。

まず期間①では、外国人のICC職員が集会をおこなったために、英語からアチョリ語への通訳を必要とした。2月12日にICCがルコディ村で第一回目の集会を開き、3月4日にICC主幹検事ファトゥ・ベンソーダ(Fatou Bensouda)がルコディ村を訪問した。そして3月後半にはいると、ICCはルコディ村とその周辺村の少なくとも11準村において小規模な集会を開催した。これらの準村は、襲撃事件当時に、ルコディキャンプに在住していた人びとの帰還先である。A準村で集会が開かれたのは3月20日である。ICC職員は裁判の概要とプロセスを説明したあとに、ICCが被害者に対するアカウンタビリティや被害者の参加を重視していることを強調した。そして最後に、裁判における証拠の重要性を強調しながら、活動の対象者は「オグウェンの目撃者」と「襲撃事件によって心身に障害をうけた被害者」であることを言明した。

つぎに期間②では、アチョリ人のICC職員がアチョリ語によって集会を進行したために、ICC職員と地域の人びとのあいだの理解が促進された。5月5日、ICC職員とCOREチームが会議をひらいた。おもな議題は、被害を申告するために必要な身分証明の手続きと襲撃事件での被害を証明する手続きであった。ウガンダでは2015年3月に個人登録法(Registration of Persons Act 2015)が施行されたことによって、当時、交付途中であった国民証明証(National ID card)が身分証明のために適用されることになった。ただし18歳未満の子どもには国民証明証は与えられないために、その代替として出産証明証や学生証が適用され、かつ保護者の同伴を必要とすることも確認された。そして申告書には、LC1(Local Council 1)の議長と地区首長(Parish chief)7のサインが必要であるとされた。しかし被害を証明する手続きについては、困難が予見された。死亡や傷害を証明する書類を所持している人びとの数は、多くなかったからである。またこの会議において、対象者の条件は具体的な議題にならず、事実上、対象者の選定はCOREチーム、ひいては地域の人びとに委ねられた。

2015年5月6日に、ルコディ村のA準村でおこなわれた2回目の小規模集会で、ICC職員はICCが7月から被害の申告を受けつけることを明かした。そして対象者を「襲撃事件当日にルコディキャンプにいた者」または、「家族の一員をキャンプで失い、またそのごの生活に損失を受けた者」に拡大した。そしてICC職員は活動の対象について、期間①では「チャデン(caden:アチョリ語で証拠/証言)」と説明していたが、このときには「アワノ(awano:アチョリ語で被害)」を強調した。ICC職員は同時に、ICCは検察官が勝訴した場合にオグウェンに対して被害者への賠償を命じること、そして被害者信託基金(Trust Found for Victims)によって被害者の復興支援をおこなうことに言及した。

期間③では、ICC職員が訓練をしたグル大学の学生たちとCOREチームの男性ふたりが、対象者への聞き取りをおこない、「被害者の参加への申請(Application for Individual Victim’s Participation)」と題された書類への記入をおこなった。この活動は、まずルコディ村にある5つの準村ごとに日程を分けて7月6日から9月29日までおこなわれた。それぞれの期間は準村ごとの人口にあわせて1週間から2日ほどであり、実施時間は午前10時から午後4時で、1日あたり60人程度が被害の申告をおこなった。そのあとにルコディ村外の地域を対象にした日程が組まれた。ルコディ村周辺での申告者数は最終的に1700人8にのぼった。聞き取りの際には襲撃の日にルコディキャンプにいたかどうが問われ、LRAが襲撃した日時とその方角、またそのときに申告者が何をしていたかなどの事実確認がなされた。そして襲撃による直接的な被害、襲撃後の生活状況や被害者の代理人になる弁護士にどのような資質や地域の人びととのかかわり方を求めるかが尋ねられた。申告者には、交通費として最低5000UGX(約150円)9が支払われた。

結局のところ、被害申告の対象者は必要とされた身分証明証をもつ者すべてに拡大された一方で、それをもたない者は対象者にならなかった。会場には連日多くの人びとがつめかけて、夕方になるまで人が絶えることはなかった。

3. 捜査活動に対する地域住民の応答

ICCによる活動が開始されて以来、地域の人びとはオグウェンの訴追に対しておおむね好意的な意思を示していた。しかし人びとは、当初ICCが厳密に規定した「目撃者」/「被害者」を「ICCの前で語りうる者」としてとらえながら、嘲笑を含んだ会話を交わしてもいた。2月にはじめてICCが集会をおこなったとき(期間①)、村の酒場で真昼間から男たちの笑い声が響いていた。ある男が言った。「オグウェンを見た者?いるわけがないだろう。銃撃戦がはじまって、立ち止まる者がいるか?オグウェンを見た者はみんな死んだ。」そして当時の隣人たちが、逃げる姿や、物陰から戦場をうかがう姿の真似をして、ひとしきり笑った。ICCが目撃者のみを対象者にするならば、じぶんが被害者であることに疑いをもたない人びとのほとんどは、語る権利を与えられないことになる。ICCがどの程度、厳密に対象者をしぼりこむか、現在この地域に暮らす人びとの声をすくい上げるかという問題について、人びとは懐疑的にとらえていたといえる。

期間②にはいると、人びとはCOREチームからの情報をえて、ICCがそれほど厳密に「目撃者」/「被害者」の条件を規定しない、つまり活動が開かれたものであることを認識し始めていた。しかし人びとは誰がその対象になるのか/ならないのかという問題について、積極的に語ろうとはしなかった。まずわたしが唯一聞くことができた活動をめぐる日常会話を紹介したうえで、この状況が生まれる理由について説明する。

5月のある日、村の酒場で男たちが車座になって他愛もない世間話をしていた。男A(30代)がICCの集会に関する話をはじめて、「ICCは、キャンプにいた者だけが被害を語ると言った。」と口にした。これに対して男B(30代)は「LRAはわたしたちの暮らしを壊した。キャンプにいなかった者が語ることを妨げるならば、その者は腹が黒い。そうだろう?わたしたちみんなが語るのだ。」と続けた。この会話はなんともいえない気まずさを漂わせながらたち消え、ふたりはどちらともなくほかの男たちの会話にまぎれこんでいった。

この様子から、対象者の条件をめぐる対立が回避されていることがわかる。これは、お互いの紛争経験に不用意に立ち入らない、地域社会に暮らす人びとの暗黙の了解から生まれている。男Aは、襲撃事件当時に、キャンプで生活しており、かつ母親を殺された経験をもつ。彼は紛れもなく襲撃事件の「被害者」である。一方で男Bは、襲撃事件当時には、別のキャンプで暮らしており、またこれによって親族を喪失したわけでもない。つまりふたりの男のあいだには、襲撃事件をめぐって大きな経験の相違が存在している。ではなぜ、男Aはそのことを指摘しなかったのだろうか。

これに対してふたつの理由を指摘することができる。ひとつは、襲撃事件に遭遇したことの偶然性である。紛争期において、この地域の人びとは20年のあいだ、度重なる移住生活を続けていた。たとえば男Bの家族は、1986年から2008年までのあいだに、まちとむら、そしてキャンプを11回にわたって移住していた。むらやキャンプが危険であった一方、まちで借家に暮らし、日雇い労働に従事し、その日の食料を手に入れることは容易ではなかったと誰もが語る。いつどこに移住するかは、そのときの経済状況、庇護をもとめることができる親族や知人との社会関係の有無、あるいはそれらが欠如していたときに庇護者をえることができるかどうかの運にかかっていたといえる。度重なる移動や長期にわたるキャンプ生活を送った人びとにとって、いつだれがどこに住んでいたかという問題は紛争時の苦難を決定的に区別する材料にはならない。

もうひとつは、紛争経験の個別性である。男Bは、1990年代中盤にLRAによって誘拐されて3年間従軍した経験をもっている。男Bはこの経験からルコディに暮らすことを拒絶して、母方の親族を頼って別のキャンプに移住した。それでも男Bが誘拐されたという事実は、彼がLRAに所属していたことを意味する。国際的にもウガンダ国内においても、元兵士は無理やり誘拐されたことによる被害者として語られているが[Mawson 2005]、地域社会における現実はそれほど単純なものではない。現在の地域社会においては、日常的にだれも紛争について語ろうとせず、語ることはタブーであるとさえみえる。

たとえばわたしがある日、村の人びとと酒を飲んでいたときの例をあげよう。突然にある元兵士の男C(20代)が、じぶんが誘拐されたときの状況と誘拐されたあとに受けた暴力について語りはじめた。男Cは、誘拐されたときに一緒にいた隣人一家は飼い犬がLRA兵士に噛みついたことで逃げおおせて、じぶんだけが誘拐されたと語り、これを聞いていたまさにその隣人は下をむいて黙りこくってしまった。わたしが酔いに任せて男Cの語りに涙を流したところ、彼は翌日予定されている集会のあと、わたしにもっと詳しい戦場経験を語り聞かせると続けた。しかし周囲の人びとは男Cをちらちらと横目で見ながら、だれも彼のはなしに参加しなかった。

ここではまず、具体的な経験にもとづいて、特定の元兵士が見捨てられた被害者として認識されていることを指摘できるだろう。またLRAによる誘拐は身近に起こってきたことであり、多くの人びとにとってもそれを免れたのは紙一重の偶然でさえあった。一方で別の場面では、村人は元兵士の素行の悪さについて、わたしにこっそりと耳打ちすることもある。それは、いかに元兵士がLRAに従軍していたときの経験が辛苦に満ちていたと語ろうが、人びとは彼らが暴力行為をおこなったということを想定していることを意味している。それでも人びとがおおやけに悪態をつかない理由は、それぞれの人びともまた、そう遠くない血縁に元兵士がいる状態にあるからである。元兵士は人びとにとって、極めて身近な被害者であると同時に加害者でもあるために、人びとはLRA兵士としての個別の経験についておおやけに言及することができない。わたしの涙は経験を共有しない部外者による滑稽な産物であり、人びとからは流れ出ないものだったのである。翌日、男Cとわたしは微妙な気まずい視線を交わしたあと、前日の出来事を酔いに任せた虚構にして一切言及しなかった。

先にあげた事例にはなしをもどせば、個別の紛争経験について掘り下げることは、地域住民として暮らしている元兵士の加害者性を浮き彫りにする可能性を孕んでいるのであり、誰もがそうした加害者を抱えているために回避されるのである。ボスニア紛争を研究したEstmond and Selimovic[2012, 521]は、「紛争期の記憶は誰ひとりとして開く危険を冒そうとはしないパンドラの箱である」と指摘する。地域社会のなかで、誰が誘拐され、どのくらい兵士として従軍していたかということは周知の事実である。しかしながら、それに言及することなく、現在の平和な地域社会を継続することが(たとえ表面上であったとしても)、人びとにとって極めて重要な暮らし方である。このようにICCによる活動では、ICCが被害者を厳しく選定しなかったことと、紛争後社会に暮らす人びとの作法ともいえる暗黙の了解が合致したことによって、多くの人びとが被害を語ることを可能にしたといえる。

4. 紛争経験をめぐる地域住民の語り

ICCの活動において、1700人もの地域の人びとが活動に参加するにいたったプロセスと、それを可能にした地域社会の現状について述べてきた。ここからは襲撃事件に関する語りについて記述する。ただし以下に記述する語りは、わたしがICCの活動後に襲撃事件での経験について個別に聞き取りをしてえたものである。それゆえに、地域の人びとがICCに対して語った内容と直接的な関係はないことを付言しておく。

まず襲撃事件当日に、運搬人として誘拐された女(30代)の語りを紹介する。彼女はこう言った。「わたしは捕えられて、ブッシュまで荷物を運ばせられた。タライ3杯分の豆を。わたしは身籠っていたし、背中には子どもがいた。LRAは、子どもを投げ捨てた。寄ってきた子どもを蹴った。子どもは死んだ(と思った)。わたしは1日あとに、村に戻った。子どもはルコディに戻っていた。政府軍が子どもを保護していた。わたしはブッシュでオグウェンを見た。」(カッコ内、筆者補足。)彼女は、わたしが暮らすA準村のなかで、襲撃事件で誘拐されたおそらく唯一の人物である。彼女は、襲撃事件のときの経験を鮮明に語ったのだった。

次に、ある男(30代)とわたし、わたしの調査助手のやりとりを紹介する。男はまずわたしに対して、父親が襲撃事件で殺されたと語った。しかし男の父親がLRAによって殺害されたのは事実であるが、それは襲撃事件よりもはるかに前のことであり、オグウェンの指揮下でおこなわれたものでもなかった。わたしは男の母親からこの事実を聞いていたので、その場で、冗談風にではあるが彼の「うそ」を指摘した。すると男は戸惑い口ごもってしまった。そのとき、わたしの調査助手の男(20代)が、「LRAに対する怒りが彼にそう言わせた。LRAがやったことに変わりはないだろう。わたしたちはLRAによって苦しめられてきたのだから。」と言った。調査助手は自明の「うそ」を指摘するわたしが無作法者であるかのように、男を弁護したのだった。

またある老女(70代)は、「わたしの子どもはLRAにとらえられた。もうひとりは、病気を患っている。別の子どもは死んでしまった。わたしは子どもふたりと走った。夫はまちにいた。子どもはそれぞれに走っていった。夫は子どもを探しに来た。夫とわたしは子どもたちすべてを道で見つけた。そしてまちに逃げた。」と語り、ICCを支持していることとオグウェンがこの地域に赦しを請いにくる必要があるとつけ加えたあとに、黙った。周囲の人びととわたしが世間話をはじめてしばらくすると、この老女は思い出したように「ああそうだ、隣人が子どもを抱えたまま、燃えて死んでいた。忘れることができない。」と呟いた。冒頭に老女は、子どもたちの誘拐や死、病気について語っているが、わたしはこれらもまた襲撃事件と直接関係することではないことを知っていた。老女の語りにも先の男と同様に、襲撃事件における出来事の語りとしては「うそ」が混じっていたのである。しかし老女は、わたしが彼女の家族構成や子どもたちの紛争経験を知っていることを知っている。わたしの居候先は老女の家の近所であるし、以前にも彼女に対して紛争経験に関する聞き取りをしたことがあったからだ。老女が意図的にわたしに「うそ」をつく意味はない。

それでもこの老女が、このような語りをしたことには、上述の調査助手によるわたしへの教示と同じ理由が考えられる。老女にとって、子どもの誘拐や死、病気と襲撃事件は連続する紛争経験のなかのひとこまである。それはひとつを語ろうとするときに、連なって想起されるような経験群だといえるだろう。

2016年9月、わたしは被害の申告の実施に関わった男(50代)に聞き取りをする機会をえた。彼もルコディ村の住民であり被害を申告したが、自身が襲撃事件の現場に居合わせなかったことを気まずそうに明かした。そして、被害を申告することができる者は、第一に襲撃事件に遭遇した者であり、第二に襲撃事件で親族を失った者であり、第三に襲撃事件の影響でそのあとの生活に被害を受けた者であると言ったあと、それでもすべての人びとは紛争の被害者であるとつけ加えた。

おわりに

本論の冒頭において、わたしはICCに突きつけられたふたつの批判をとりあげた。ひとつは、その応報的な処罰が地域社会のやり方と合致していないという問題であるが、ウガンダ北部の現状において、地域社会の人びとみずからがICCを好意的に受けいれている。ふたつめは、ICCが被害者の参加を困難な状態にしているという問題であった。本稿でみてきたように、ICCは地域の人びとによる応答にもとづいて「被害者」の条件を暗黙裡に緩和したことで、だれもが被害者として活動に参加することを可能にした。

この全員参加ともいえる状況を創りだすプロセスにおいて、それぞれの人びとがもつ被害者の条件に差異が生じていたが、それがおおやけに議論されなかったという点は注目に値する。襲撃事件での直接的な被害者こそが語るべきであると考えていた者もいたが、それが活動に反映されなかったのは、だれもが紛争の被害者であるからであると同時に、多様な加害者と多様な被害者のカテゴリーが存在する地域社会のなかで他人の紛争経験にふれないという暗黙の了解が存在していたからである。そして人びとにとって語ることができる紛争経験とは、襲撃事件一日のことではない。人びとが経験した紛争とは、20年におよぶ途方もない月日の連続であり、人びとにとってその一部分だけを切り取ることは非常に困難であるどころか、理不尽な作業であるとさえいえる。

ただし地域の人びとが襲撃事件だけについて語ることが困難であることは、裁判の公正性・公平性を脅かす可能性をはらんでいる。地域の人びとの語りには法的に必要とされる事実とは別様のものが含まれうる。しかしながらこの危険は、ICCが被害者の参加を受けいれたあとに、それを注意深く検討し裏づけをとることで回避することができるだろう。重要なことは、地域社会での活動において、裁判であつかわれる襲撃事件のみならず紛争全体の被害者が、現時点において裁判のプロセスに参加しえたのであり、ICCがそれを受容したことである。

人びとにとっての裁判は、紛争から平和への移行のなかで、ひとつの区切りを意味するものであり、そのプロセスに参加することそのものに意味がある。また語ることが回避される生活の場から離れて、人びとが被害者として語ることが受けいれられる場をえたことも重要である。もちろんこれらの意味での人びとの認識と法にもとづいた裁判の意義には、乖離がある。しかしICCが「被害者のための裁判所」であるならば、活動をとおして人びとに一定の充足を与えうること、それ自体も評価されるべきではないだろうか。

[謝辞]

本研究は、日本学術振興会特別研究員奨励費(課題名「紛争後社会における人々の和解と平和構築に関する研究:ウガンダ北部アチョリを事例に」、研究課題番号13J02856、2013年度~2015年度)、松下幸之助記念財団研究助成(課題名「国際刑事裁判所に対する地域住民の応答と移行期司法の展開:ウガンダ北部紛争を事例に」、助成番号16-200、2016年10月~2017年9月)ならびに日本学術振興会二国間交流事業オープンパートナーシップ共同研究(課題名「ウガンダにおける「家族」の多様化と再編力についての研究:格差に対抗する潜在力分析」、代表:椎野若菜、2016年度~2017年度)によって実現した。本稿は、日本アフリカ学会2016年度学術大会での口頭発表をもとに執筆した。発表準備から執筆においては、京都大学の太田至教授をはじめとした多くの先生方・先輩方のご指導を賜った。またルコディ村の人びとにおいては、寝食をともにするとともに、快く調査に協力していただいた。ここに深く感謝いたします。

本文の注
1  わたしは、2008年からアチョリという人びとが暮らすウガンダ北部のグル県(Gulu District)を中心に、人類学的な調査を続けており、同県ブンガティラ準郡(Bungatira Sub-county)ルコディ村(Lukodi Village)において2012年から計17カ月の住み込み調査をおこなった。本稿では、2015年2月から10月までのあいだにおこなった、ICCの活動に関する直接観察とそれに対する住民の応答への参与観察および聞き取りのデータをもちいる。調査の際には、おもにアチョリ語と補助的に英語を使用しており、住み込み先の青年による協力をえた。

2  恩赦法によれば、1986年1月17日以降に、ウガンダ政府に対する戦闘あるいは反乱にかかわったウガンダ人に恩赦を与え、恩赦が付与された者は武装闘争の際に犯した罪を訴追または処罰されないとされている。

3  詳細については、川口[2015]を参照されたし。

4  オグウェンは誘拐されてLRAに従軍してきたことから、彼の被害者性を問う議論もあるが[Baines 2009]、本稿では触れない。

5  2015年時点で、ルコディ村には行政区画として5つの準村が存在していた。A準村はそのうちのひとつである。ただし2016年に行政区画が再編成されたために、その数は10に増加している。

6  2010年5月からルコディ村で活動を開始したNGOであるJustice and Reconciliation Projectが、開発支援とコミュニティレベルでの和解の実施を目的として組織した住民グループ。

7  ウガンダでは、村(Village)、地区(Parish)、準郡(Sub-County)、郡(County)そして県(District)までの5段階の行政単位に、同順でLocal Council 1(LC1)からLocal Council 5(LC5)までの地方議会と首長が置かれている。地方議会では、5年に1度の総選挙によって議長と評議員が任命される.首長は、中央政府から任命される。

8  2015年10月29日に交わされた、ICC職員とCOREチームの会話による。

9  ルコディ村とその周辺地域在住の者に対しては一律5000UGX、それより遠くに住んでいる者は距離に応じてそれ以上の額が支払われた。ルコディ村では、およそ160㎡の畑の耕作に対する賃金の相場が2500UGX(約75円)であり、交通費の支給は地域住民が被害の申告に参加する大きなインセンティブにもなった。

参考文献
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