アフリカレポート
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論考
バシール政権崩壊から暫定政府発足に至るスーダンの政治プロセス――地域大国の思惑と内部政治主体間の権力関係――
アブディン・モハメド
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2020 年 58 巻 p. 41-53

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要約

本稿では、2019年4月11日にスーダンのバシール大統領が失脚してから8月17日に暫定政府の設立合意が成立するまでに、国内の主要な政治主体間にいかなる権力闘争があったのかを分析する。そのために、暫定軍事評議会を支援したサウジアラビア・UAE・エジプトの三国陣営、そしてエジプトがスーダンに対する影響力を拡大することを危惧したエチオピアといった地域大国の役割にも注目した。主な結論は以下の3点である。(1)6月3日にスーダン軍部がデモ隊を強制排除する以前には、サウジアラビア陣営はスーダン国内政治に影響を及ぼすことができたが、(2)6月3日の事件以後には、エチオピアが、対立する国内主体間の交渉を仲介することに成功したため、サウジアラビア陣営の影響が限定的になり、(3)その結果、デモ隊の強制排除を通して軍政の復活を目指した暫定軍事評議会と、エチオピアの介入によって息を吹き返した民主化勢力との権力関係が拮抗するようになり、8月には暫定政府の設立に関する合意が可能となった。

はじめに

2019年4月11日に、30年間に及んだスーダンのオマル・アル=バシール(Omar al-Bashir)政権がついに崩壊した。ラディカルなイスラーム主義に基づいて出発したバシール体制は、スーダン内戦をイスラームの聖戦と位置づけたり、1990年代には世界中のイスラーム過激派組織に活動の場を提供するなどして、欧米諸国から多くの非難を浴びてきた。さらにダルフール紛争では、大量殺戮やジェノサイドを主導したとして、バシール大統領は国際刑事裁判所(ICC)から現職大統領としては初めて、2009年と2010年に逮捕状を発行された。2011年以降、南スーダンの独立と石油収入の激減に起因する経済危機と、中東全体に押し寄せた政治的変革の波(アラブの春)に対応すべく、バシール政権はそれまでの対外関係を大幅に見直し、目まぐるしい同盟再編に踏み切った。

しかしバシール政権は、2018年9月頃からライフラインともいえるガソリンや小麦の調達に必要な外貨を準備できず、さらに、スーダンの通貨であるポンドの銀行からの引き落としに制限をかけるようになり、経済危機がすべての国民を直撃した。この経済危機を誘発した諸要因の詳細は割愛するが、主要なものには、2011年7月の南スーダンの独立による、スーダンの原油輸出量の激減(南スーダンの原油生産量はスーダン全体の75%近くを占めていた)に加え、汚職の蔓延、米国による経済制裁の影響が指摘できる。

経済危機に耐えかねた国民は、2018年12月中旬からガソリン不足やパンの値上げに対して、断続的に抗議デモを開始した。デモは、ハルツームのみならず地方都市においても多発するようになった。これに対して政府は、厳しい弾圧を行使したものの、かえって、それが抗議行動に油を注ぐ結果をもたらした。国民は、2019年4月6日に首都ハルツームの軍本部前などで座り込みのデモを開始し、最終的には軍が2019年4月11日に無血クーデターをおこしてバシールを解任する形で決着がついた。

このクーデターを主導したのは、バシールの側近であり第一副大統領兼国防大臣を務めていたアワド・イブン・オーフ(Awad Ibn Auf)だった。彼は暫定軍事評議会(Transitional Military Council:TMC)の発足を発表して、自身がその議長に就任した。しかし、これに対してデモ隊は強く抗議し、それに屈する形でイブン・オーフは24時間足らずで辞任し、代わりにスーダン国軍の総監を務めていた陸軍中将のアブドル・ファッタハ・アル=ブルハン(Abdel Fattah al-Burhan)を議長に指名した。ハルツームの軍本部前で座り込みをしていた人々は、2019年6月3日には暫定軍事評議会の軍隊によって強制的に排除され、多数の死傷者が出た。以降、TMCは、即時の民政移管要求に抵抗を示しながら、2019年8月17日に暫定政府の発足に関する合意が締結されるまでのあいだ、実権を掌握し続けたのである。

本稿が対象とするのは、バシール体制が崩壊してから暫定政府の発足までの期間に、流動的な国内情勢によって国家崩壊の危機が何度も訪れたにもかかわらず、紆余曲折の末、文民と軍人の合意を経て暫定政権の発足にまでこぎつけたダイナミックな政治プロセスである。すなわち本稿では、この期間にスーダン国内の主要な政治主体間の力学がいかに変容したのか、周辺地域および国際レベルの諸アクターのスタンスの変化が、国内諸アクターにどのような影響を及ぼしたのかを総合的、多角的に解明し、スーダンの内政は地域的、国際的動向と密接な関係をもつことを論ずる。それを踏まえて本稿では、今後のスーダン民主化プロセスの行く手を占う際には、中東・アフリカ地域をはじめとする国際社会で同時に生起するさまざまな出来事の複雑な関連性を念頭に置く必要があることを強調する。

本稿が対象とする国内諸アクターは、バシール政権の打倒を目指して2018年に発足した「自由と変革勢力(Forces of Freedom and Change:FFC)」といった民主化勢力の連合体、暫定軍事評議会と軍部治安部隊、そしてイスラーム運動の残存勢力である。この残存勢力とは、国家機構の隅々に張り巡らせられた「スーダンイスラーム運動」の関係者、および、思想的理由によってバシール体制の支持層をなした人々を指す。紙幅の関係で本稿では、反政府武装組織の連合体である「スーダン革命前線(Sudan Revolutionary Front: SRF)」およびその他の反政府武装組織は分析対象から除外する。また、本稿が地域諸アクターとして取り上げるのは、反ムスリム同胞団陣営1を構成するサウジアラビアとUAE、およびエジプト、そして最近、アフリカの平和外交でリーダーシップを発揮しているエチオピアである。本稿ではEUと米国、およびアフリカ連合(AU)の動向も分析対象とするが、スーダン内部主体と地域諸アクターに比重を置く。

1. バシール体制の崩壊から2019年6月3日までの主要な政治主体間の権力関係

ここでは、バシール体制の崩壊以降に、政治権力をめぐって熾烈な争いを展開した主要な国内アクター、特にFFCとTMCに焦点を当て、各アクターがどのような権力の源泉をいかに活用してきたのかを検討する(表1)。民主化勢力を代表するFFCは、スーダン専門職能者連合や国民合意勢力、スーダンの呼び声といった組織から構成されている。FFCは、2018年12月に始まった抗議行動に参加した多くの国民の支持を得て、民主化を推進するために中核的役割を果たした。しかし、バシール体制が軍の介入による軍事クーデターという形で崩壊したため、軍や治安部隊が新たに立ち上げたTMCが主要な内部アクターに躍り出た。FFCは国民の高い支持を得ていたとはいえ、深刻な経済危機への迅速な対応が求められた流動的な状況下では、30年にわたって経済活動に深く関与してきた軍や治安部隊の協力が、平和的移行のためには必須だった2

(出所) 筆者作成。

FFCは、軍事クーデターの直後にTMCに対して、迅速で完全な文民主体への権力移譲を求めた。この要求には非現実的な一面があったものの、革命の担い手であり軍部への譲歩を是としない市民に押されたFFCは、その道を選択せざるを得なかった。加えて、発足したばかりのTMCの主要メンバーには、バシール政権の支持基盤であるイスラーム運動に近い者が多かったため、TMCが旧体制の基盤を解体するとは考えにくかった。そのためにFFCとその支持者は、TMCのメンバーらがなんらかの形で旧体制を存続させるために革命をハイジャックしたのではないか、という疑念をもったのである3

自分たちが革命的な正当性を有しているという信念とともに、FFCを力づけたのは、AUが「軍事クーデターによって発足した政府を承認しない」という明確な方針を示したことである。クーデターの直後にAUの平和安全保障委員会(Peace and Security Council)は、TMCに対して2週間以内に民政移管を完了させることを要求し、応じない場合にはスーダンのAU加盟を凍結すると通告した[Sudan Tribune 2019b]。ただし、AUのこの動きはFFCに外部的な正当性を付与したが、後述するように、革命的な正当性の存在とAUによる正当性の付与だけでは、TMCに民政移管を強制することは困難であった。

一方のTMCは、軍事力を持つと同時に、湾岸産油諸国からの手厚い経済的支援に支えられていた。そのために民主化を推進する勢力はTMCの存在を軽視することはできなかった。TMCの権力の主要な源泉としては、(1)地域大国であるサウジアラビアやUAE、エジプトの支援を受けたこと、(2)旧体制派による不安定化の動きやクーデターを防止できる潜在能力があったこと、(3)旧体制が温存されるかもしれないという期待から、旧体制派がTMCに対して消極的なサポートを与えていたことの3点が考えられる。

(1)については、サウジアラビアやUAEは、TMC発足当初にスーダンに対する30億ドルの支援を発表した[Abdelaziz 2019]。両国は、以前はバシール体制を支援していたが、2017年からバシールが両国と敵対するカタールやトルコに接近し始めたために、バシールに代わる人物を探し始めたといわれる。そこで、サウジアラビアのイエメン戦争に参加していたスーダン国軍を指揮していたアル=ブルハン陸軍中将と、2014年以降に民兵組織から準国軍部隊に格上げされた「迅速支援部隊(Rapid Support Force: RSF)のトップであるモハメド・ハムダン・ダガロ(Mohamed Hamdan Dagalo、別名:ヒメッティ Hemetti)に白羽の矢が立った[Vertin 2019]。二人は、バシール体制が崩壊する過程で錯綜した状況を巧みに操作し、TMCの議長と副議長のポストについた。さらにAUの議長を務めるエジプトのアッ=シーシー(el-Sisi)大統領は、TMCが民政移管を完了させるまでの期間を2週間から3カ月に延長するように、AUを説得することに成功したのである[France 24 2019]。

(2)に関しては、30年間続いたバシール政権の支持基盤であったムスリム同胞団が、国軍をはじめとする治安部隊の隅々まで浸透していたことを想起する必要がある。FFCや一般大衆は、ムスリム同胞団の一派がバシール体制の復活を狙って再度、クーデターを起こすことを危惧していた。この一派を封じ込められるのはTMCだけだったため、民主化勢力のあいだでは、TMCに徹底抗戦することに関して足並みがそろわなかった。さらに、ムスリム同胞団の弱体化を目指すサウジアラビアに後押しされたTMCは、スーダンのイスラーム運動を抑制する可能性を残していた。このように民主化勢力にとって、TMCと共通の目的に関しては協力することに一定の合理性があったため、TMCを必要悪とする見方が浮上した。民主化勢力のなかのこうした姿勢自体が、TMCにとっては権力の源泉となったことは否定できない。

(3)に関しては、TMCにはイスラーム運動の関係者が含まれていたため、旧体制派は、TMC内のパワーゲームのなかで旧体制が復活する可能性が残されていると考えていた。そのために旧体制派は、直ちにTMCに対する抵抗を始めるよりも、状況を慎重に注視することが望ましいと判断し、TMCに対する攻撃を手控えた。それが結局、TMCにとって間接的にパワーの源泉となったのである4

以上の3つの要因に加えて、FFCにとっては、もうひとつ気がかりな問題があった。それは、2018年12月中旬にバシール体制に対する抗議運動を始めた民主化勢力が、国際社会や地域大国の支援を獲得できなかったことである。アラブの春以降にUAEやサウジアラビアは、不安定化した国々で覇権的な外交政策を展開するようになった。その介入を簡潔に表現すると「反民主化的介入」である。UAEやサウジアラビアのこのような外交の狙いは、ムスリム同胞団の進展を封じ込めることであり、その点に関しては、FFCと同様の目標を掲げているはずだった5

それにもかかわらず、FFCと反ムスリム同胞団陣営のあいだでは信頼を醸成させることができなかった。そのもっとも大きな原因は、FFCの幹部がたびたび、スーダン国軍のイエメンからの撤退を主張したことである。UAEとサウジアラビアが2015年3月にイエメン作戦を開始して以来、スーダンはこの作戦に協力してきた。イエメン国内に展開していた主要な陸上部隊はスーダンの国軍と迅速支援部隊であったため、それがイエメンから撤退すれば、両国は大きな打撃を被ることになる。イエメンからの撤退を表明していたFFC幹部の存在がサウジアラビア側に不安を与え、FFCとの協力を困難なものにしていたのである6

欧米諸国も同様に、スーダン国民の政府に対する抗議デモを積極的には支持しなかった。EU諸国は、アフリカからEU圏に移動する不法難民の主要なルートのひとつである東アフリカルートの中継点にあるスーダンの政情が不安定になると、新たな不法難民の波を誘発すると考えていた。そのためにEU諸国にとっては、不法難民対策に協力していたバシール政権を温存させることが現実的な選択肢であった7。一方、2001年9月11日に米国を襲った同時多発テロの直後から、それまではいわゆる過激派組織に協力してきたバシール政権は、過激派組織に関する情報共有を米国と積極的に行うようになった。スーダンの国家情報治安当局(National Intelligence and Security Service: NISS)が米国中央情報局(CIA)との協力を強化したのである[Stevis-Gridneff and Malsin 2019]。スーダン市民にとってNISSは、民主化勢力を拷問するなど、バシール政権の弾圧を象徴する悪名高い組織である。もし、バシール政権が崩壊すればNISSは解体される可能性があり、米国政府にとってはNISSルートで獲得してきた情報が途絶えかねない。中東のアラブの春以降に地域全体が不安定化したことが、欧米諸国にこのような消極的姿勢をとらせた一因であったと考えられる。欧米諸国の政府は「民主化」よりも「安定」を優先させたのである。

2. 2019年6月3日の虐殺

2019年4月11日にバシール体制が崩壊して以来、民主化勢力と軍部のあいだでは約2カ月のあいだ膠着状態が続いていたが、それを大きく変換させる転機となったのが6月3日の虐殺事件である。本節ではこの事件が発生した背景と、それ以降にスーダン内部の政治主体間の権力関係がどのように変化したのか、そして、その変化をもたらした諸要因は何かを分析する。

まず、6月3日事件に至るまでの経緯を説明する。前述したように、民主化勢力が主導した政府に対する抗議運動は2018年12月中旬に始まり、治安部隊の弾圧に耐えながら比類のない徹底した「非暴力運動」として継続した。しかし、抗議活動が長期化していくなかで、民主化勢力のリーダーらのあいだには、バシール政権を崩壊に追い込むための決定的な行動が必要であると主張する意見が次第に強くなっていった。そこで彼らは、スーダン国軍の本部前で4月6日に座り込みを決行することを発表した。

当日に治安部隊は、軍本部の広場につながる道路を封鎖するなど、デモ隊が広場になだれ込むのを防止しようとした。しかし、座り込みの呼びかけに応じて治安部隊の想定を超えるデモ隊が殺到し、結局、デモ隊は目的地にたどり着くことに成功した。その後、軍本部広場で座り込みを続けるデモ隊に対して、NISSや「影の部隊」8などが強制排除を試みたものの、軍本部の警備にあたっていた若手将校のなかには、デモ隊を守る行動をとった者もあった[BBC News 2019]。この理由は明らかではないが、治安部隊のなかの統制がとれなくなっていたか、あるいは軍の一部には「自分たちが国民の味方である」ことを示して共感を得ようという思惑があったのかもしれない。ともあれ、国軍の離反や分裂を危惧した軍の上層部は、4月11日にバシールを見捨ててクーデターを起こし、ここにバシール体制は崩壊した。

しかし、文民主導の暫定政府の発足を目指すデモ隊は、治安部隊に排除される6月3日まで、軍本部前の広場で2カ月にわたる座り込みを継続した。座り込みの場では、様々な政治的、社会的、宗教的な市民組織が、国の将来像に関する考えを国民に向けてアピールした。そこでは、政治的思想を異にするもの同士が「民主化」という共通の目的を目指したのである。連日、軍本部前の広場には多くの人々が訪れ、座り込みを続ける人々の食糧を差し入れたり、飲料水や食品のメーカーが無料で商品を配布するなど、明るい未来を夢見る国民の連帯が強化され、ある種のユートピア的な世界がそこに広がったのである9

座り込み参加者の大半は民主化勢力の代表としてFFCを支持していたため、TMCとの交渉プロセスにおいて、FFCはこの座り込みをもっとも重要な政治力の源泉としていた。FFCが突き付ける高い要求に対してTMCはいらだちを募らせ、TMCのスポークスマンは、FFCおよび座り込み参加者をたびたび非難するようになったうえ、「座り込みは国家安全保障の脅威となる」として強制排除をほのめかすようになった[Salih 2019]。加えて、サウジアラビアとUAE、エジプト陣営は、TMCが主導する暫定政権の発足を熱望していた。実際に、危機的状況にあったスーダン経済を支えていたのは、ほかならぬサウジアラビアとUAEによる緊急資金援助であり、この立場を利用して両国政府はTMCに対して、FFCとの交渉を打ち切るよう圧力をかけたのである。サウジアラビア陣営は、FFCを無視しても、TMCは単独あるいは他の政治勢力や部族長の後押しを受ける形で暫定政府を発足できるという見方をしたと考えられる。このような状況を背景に、6月3日の早朝に、RSFをはじめとする治安部隊が座り込みの強制排除に踏み込んだのである。

しかし、TMCの予想に反して、強制排除のプロセスでは残虐かつ過剰な暴力が行使され、百余名の死者と数千人の負傷者が出た。加えて、男女両方に対するレイプが横行し、デモ隊メンバーに重りをつけてナイル川に投げ込むといった非情な暴力が行使された。このような暴力が用いられた理由としては様々な説が飛び交っているが、以下の3つがもっとも主要なものである。

第一の説では、TMCは、座り込み区域の外にある「コロンビア」と呼ばれる区域が犯罪や麻薬の温床となっていることを理由に、その区域内に座り込んでいた者だけを排除しようとした。しかし、掃討作戦が開始されるとコロンビア区域から追われた市民が、座り込みの中心であった軍本部前の広場に逃げ込み、それを追撃した治安部隊は、軍本部前広場でも抗争を繰り広げ、事態が収拾できなくなった。

第二の説は、TMCは過剰な暴力に訴えることにより、その後に人々が抗議行動をしにくくさせる意図をもって、最初からある程度の犠牲を予想して掃討作戦に踏み切ったという見方である。この説を唱える者は、この掃討作戦が2013年にエジプトのカイロで発生した「ラービア虐殺」10に似ていることから、エジプトの諜報機関がTMCに助言をしたのではないかと考えている。「ラービア虐殺」以降、エジプトのアッ=シーシー国防相は実権を固め、2014年の大統領選挙に出馬して大勝利を収めた。この成功事例がTMCにインスピレーションを与えたのではないか、という見立てである。

第三の説は、強制排除の計画は限定的だったにもかかわらず、それが実施されたときには、RSFや他の治安部隊に潜む旧体制派が、TMCの意図に沿わない形で過剰な暴力に訴えることによって、国民とTMCの不和を煽り、権力への返り咲きを狙ったというものである。実際に、強制排除の直後に出されたTMCメンバーの声明文には一貫性がなく、事態を正確に把握していたとはいいがたい。

事実はどうであれ、この強制排除事件は、民主化勢力とTMCのあいだにかろうじて存在していた信頼関係を崩壊させた。ショックのあまりにハルツームは数日間、ゴーストタウン化し、民主化勢力は次にとるべき行動を決定できなかった。TMCは、その後、これまでにデモの呼びかけに一役かってきたSNSを遮断するため、スーダン全土でインターネット・サービスを停止させた。そしてここまでは、TMCとその背後にいるサウジアラビア陣営の意図に沿った形でシナリオが進展していたように見えたが、後述するように、残虐な強制排除が国内のみならず世界中の非難を招き、状況は思いがけない方向へと進んだのである11

3. エチオピア・イニシアティブ

6月3日の強制排除事件の4日後の6月7日、エチオピア首相のアビイ・アハメド(Abiy Ahmed)はTMCとFFCの仲介役を買って出た。彼は事前通知なしにハルツームに向かい、TMCもしぶしぶそれを受け入れざるを得なかった。アビイ・アハメドは在ハルツーム・エチオピア大使館でFFCのリーダーらと会合をもち、FFCとTMCが6月3日事件以前に合意していた内容をもとにして、新たな合意を作るべきだと伝えた。残虐な事件に大きなショックを受けていたFFCのリーダーらは、最初はTMCとの話し合いを拒否する構えを見せた。しかしFFCのなかには、アビイ・アハメドの提案を受け入れて現実路線をとることで、デモ隊の強制排除によってFFCが失った「後ろ盾」を補完することができるという見方が徐々に広がった12。そしてFFCは、6月3日事件を調査するために国際的に監視された独立委員会を発足させることを条件に、TMCとの話し合いのテーブルにつくことを受け入れた。

エチオピア首相は、なぜ、このように積極的な姿勢を示したのだろうか。もっとも重要な理由は以下の2つであると考えられる。第一に、スーダンの政治情勢の不安定化はエチオピアに飛び火する可能性が高い。近年、中央政府に対する不満をあらわにした暴動がエチオピアの各地で後を絶たない。たとえば、2015年からオロモ州では大規模な暴動が発生して多くの犠牲者が出た。暴動の鎮静化に失敗した責任を取る形で前首相のハイレマリアム(Hailemariam)が辞任したことがたびたび指摘されている[BBC News 2018]。そして、2018年に首相に就任したアビイ・アハメドが徹底した改革路線を打ち出したことに対して、既得権益を享受してきた保守派がさまざまな抵抗を示すようになった。また、首相の暗殺未遂に始まり、のちに発生したアムハラ州知事や軍参謀総長などの政府高官の暗殺事件が、エチオピア国内での政治的混乱を物語っている[Raidió Teilifís Éireann 2019]。さらに、エチオピアではスーダンから密輸された武器が国内の反政府組織に流通していることが以前から指摘され、エチオピア政府はバシール政権時代のスーダン政府に対して公式に抗議したことがあった[Sudan Tribune 2019a]。スーダンが不安定化すれば、エチオピア反政府組織にとってさらに活動しやすい土壌がうまれ、エチオピアの国家安全保障が一層厳しさを増すことを、アビイ・アハメドは危惧していたのである。

第二に、サウジアラビア陣営の影響を強く受けているTMCが仮に権力を固めて、エジプトとともにこの陣営に大同団結するようなことがあれば、エチオピアにとっては望ましくない地域的政治環境が出現する。近年、エチオピアはナイル川上流で大規模なダム開発を実施しているため、水流量の低下を危惧してこのダム建設に反対してきたエジプトとのあいだに緊張関係が続き、ときおり両政府の関係者は両国間の軍事衝突の可能性に言及してきた。スーダンは同じナイル川流域に位置しているが、近年、エチオピアのダム建設に関するエジプトとの共通見解を反転させて、それを容認する立場をとった13。そしてエチオピア政府は、急速にスーダンとの協調関係を築こうとしてきた。しかし、TMCに対してエジプトが大きな影響力を及ぼすようになれば、ダム建設に関する3ヵ国の交渉においてエチオピアは劣勢になりかねない。こういった懸念があるため、アビイ・アハメド首相は迅速にスーダンの危機に対応したのである。このタイミングでエチオピアが介入したことは、FFCにとって喉から手が出るほど欲しかった後ろ盾となったといえよう。

一方では、FFCを排除した形で暫定政府を発足させることが可能だと考えたTMCは、FFCを軽視し、ほかの政治勢力や部族長、スーフィー教団などの支持の獲得に動き始め、ハルツーム東部にある国際展示場で、数千人のリーダーらを集めてTMCの支援を訴えた。さらにTMCは、9か月以内に選挙を実施すると発表するなど、これまでにFFCと合意した内容を反故にする姿勢を見せた[Alamin 2019]。TMCの議長と副議長は全国を飛び回り、国民に支持を訴えた。さらにTMCは、カナダの広告会社と契約を結び、国際社会のイメージを改善しようと試みた。

4. 大規模デモの成功とパワーバランスの変化

軍本部前広場の座り込みがTMCによって排除された6月3日事件によって、FFCを中心とする民主化勢力は、いったん機能不全に陥ったものの、その打開策として全国規模のゼネストを呼びかけた。犠牲祭の四日間の祭日に続き、2019年6月9日~11日までの3日間にわたって実施されたゼネストは、FFC関係者が驚くほどに成功した[Murray 2019]。過剰な暴力を行使された直後にデモ行進を呼びかけても、恐怖のあまり参加しない市民が続出する可能性があった。そのため、抗議する市民に対して治安部隊が新たな虐殺を行いかねない状況下で、ゼネストという抗議方法は妥当な選択であった。FFCはさらに、海外在住のスーダン人ディアスポラとのネットワークを通じて、欧米の中心都市で大規模なデモ行進を実施し、欧米の市民や政府に対してTMCを非難し圧力をかけることを要求した。加えてFFCは、6月30日に百万人規模のデモを実施しようと市民に呼びかけたのである。

この提案によって、治安部隊と民主化勢力のあいだに大規模な衝突がおこる可能性が再来した。仮に、6月30日のデモが失敗すれば、TMCがさらに実権を強化し、FFCを排除して名目的な民政移管プロセスを推進することが可能となる14。そのような事態を阻止すべくFFCは、スーダン人ディアスポラのネットワークを活用し、欧米諸国の政府や人権団体への働きかけを続けた。結果として、欧米諸国の政府は次々に、TMCが行使した過剰な暴力を非難し、6月30日のデモに対する暴力行使を自粛するように促した。加えて、米国国務省はスーダンに対する制裁の発動を忠告した[Africanews 2019]。

6月30日のデモは、TMCの予想に反して大成功に終わった。事前に計画されたデモのルートに多くの市民が殺到し、FFCに対する国民の信頼がいまだに盤石であることが明確になった。同時に、欧米諸国の主要都市ではスーダン人ディアスポラによる大規模デモが実施され、欧米メディアで大きくクローズアップされた[Darfur Women Action Group 2019]。欧米から事前に発せられた厳しいメッセージを受けて、TMCはデモ隊に対する大規模な暴力を自粛した。以降、TMCはFFCとの合意に向けて交渉プロセスを加速することを余儀なくされた。

エチオピアやAUが仲介したことや、TMCおよびその後ろ盾のサウジアラビアやUAEに対して欧米諸国が圧力をかけたことに加えて、6月30日の百万人規模のデモ行進によって、TMCとFFCの権力関係が急激に拮抗するようになり、7月上旬には予備合意(preliminary agreement)が締結され、8月17日には近隣諸国の政府首脳や欧米諸国の政府代表団が列席して、TMCとFFCのあいだで暫定政府の発足に関する正式な合意がなされた。その後、両勢力の代表によって8月20日に主権評議会(sovereignty council)が設立されたが、暫定政府の構造や内容を分析することは別の論考に譲り、ここでは、暫定政府の発足式典で垣間見えた内部政治主体と外部アクターとの関係を論じて結びとしたい。

おわりに

暫定政府の発足式典には5ヵ国の首脳が参加したが、すべてサハラ以南アフリカの首脳であった(ウガンダ、エチオピア、ケニア、中央アフリカ共和国、南スーダン)。式典のなかでエチオピア首相のアビイ・アハメドが紹介されると、スタンディング・オベーションが発生し、割れんばかりの拍手はいつまでも続いた。一方では、TMCの後ろ盾となっていた国々からは、実権をもたないエジプト首相やUAEやサウジアラビアの外相が出席しただけだった。彼らが紹介されたときには、出席者からまばらな拍手が起きただけで、FFCの支持者がこれらの国々に抱いている感情が明瞭に表明されたのである。

また、民主化運動の象徴的存在となっていた20代後半の若手医師モハメド・アル=アサム(Mohammed al-Assam)は、FFCを代表してスピーチを行った。彼は、2018年12月に「スーダン専門職能者連合」メンバーのなかで最初の逮捕者となり、バシール体制が崩壊した2019年4月11日直後に釈放されたが、その端正なマスクとチェックの洒落たシャツも相まって、国民の人気者になっていた。彼のスピーチは15の短いメッセージで構成されており、その第13メッセージは、近隣諸国の政府の関与の仕方を評価したもので、「われらの革命をサポートした友人国に深く感謝する。一方では、革命の成功を阻害した国々に対して我々は関係を改善する努力をする」という内容だった。彼は、国名を明示せずにサウジアラビアやUAE、エジプトを批判したのである。それに対して出席者からは盛大な拍手が送られた。

TMCとFFCが立ち上げた暫定政府は、構成員間に大きな不信を残したまま出発した。そのため、暫定政府が今後、様々な政策の策定において合意できるかは未知数である。また、本稿の紙幅の都合で割愛したが、ダルフールや南コルドファン州、ブルーナイル州の武装勢力との和平が急務となっている。パワーシェアリングに基づいて発足した暫定政権に、こうした武装勢力をどのように参加させるのかも残された課題である。

さらにまた、紛争後の復興にかかる莫大な費用をどこから捻出するか、FFCに冷遇されたサウジアラビア陣営が暫定政府に対して経済援助を継続するのか、崩壊しかけた経済状況を立て直すためには米国がテロ支援国家の指定からスーダンを除外することが必要だが、それがただちに実現する見込みがないなかで、加熱する国民の要求にどのように対応できるかなど、暫定政権が直面する不安定要素は山積している。

本文の注
1  ムスリム同胞団は、教師のハサン・アル=バンナー(Hassan al-Banna)によって、エジプトのイスマイリアで1928年に創設された。イスラーム復興を目指し、イスラーム法によって統治される近代国家の樹立を目指した。エジプトでは、ナセル(Nasser)元大統領の時代に徹底的に弾圧されたこともあったが、1970年代からは合法的に活動できるようになり、ムバラク(Mubarak)元大統領時代には多くの議員を輩出した。アラブの春以降には、この組織の出身であるムハンマド・ムルシー(Mohammed Mursi)が大統領に選出されたほか、議会においても多数派を占めた。しかし、2013年に起きた軍によるクーデターのあと、ムスリム同胞団は再び非合法組織とされた。エジプト以外の中東地域では、ムスリム同胞団は1940年代から各地で支部や派生組織を次々に創設して影響力を強めていった。スーダンでは、ムスリム同胞団から派生した民族イスラーム戦線(NIF)を率いるバシールが、1989年にクーデターによって政権を掌握し、それ以降、2019年4月にバシール体制が崩壊するまで、同胞団は、NIFによる事実上の一党支配の支持基盤をなしていた。

2  スーダンのほとんどの経済分野において軍関連企業が多くの利権を独占的に獲得しており、治安維持および国防に加え、経済の主要なプレイヤ-となっている。

3  TMCの発足時に文民勢力との交渉を担当したオマル・ゼン・アル=アービディン(Omar Zain al-Abidin)は、熱心なイスラーム運動のメンバーであるといわれており、民主化勢力がTMCに圧力を続けた結果、同氏は辞任に追い込まれた。

4  TMCは発足当初、すべての政治勢力と話し合い、特定の勢力を阻害しないという姿勢を打ち出したため、イスラーム運動の関係者のなかでも楽観的な見方をした者が少なくない。

5  イエメン戦争やリビア内戦、シリア内戦およびバーレーンへの派兵がサウジアラビアとUAEの介入の度合いを物語っている。

6  筆者がFFC幹部に実施した電話インタビューによる(2019年10月21日)。

7  2014年11月にEUは、アフリカからの不法難民を抑制するため、不法難民の東アフリカルートの重要な中継点となっているスーダンのハルツームで、関係各国とハルツーム・プロセスに合意した。難民発生国に対する経済支援が盛り込まれ、RSFがスーダンの国境警備にあたるようになった[Tubiana and Saeneen 2018]。

8  影の部隊とは、イスラーム運動のもっとも有力なメンバーの一人であるアリ・オスマン・タハ(Ali Osman Taha)がテレビに出演した際に、民主化勢力を威嚇するために、旧体制派の周囲には民兵組織が存在することをほのめかしたもので、政府に近い非正規部隊のことを指す。

9  当時、座り込み参加者は連日のようにユーチューブに動画をアップしていたし、筆者も座り込みに参加した親族や知人、友人から、座り込みの明るく前向きな雰囲気を伝え聞いている。

10  ラービア虐殺については、CNN[2013]を参照。

11  TMCの議長と副議長は、座り込みの排除に先立ち、エジプトとUAE、サウジアラビアを外遊しており、この3ヵ国は、自分たちの懸案事項をスーダンで解決できるのはTMCだと考えていた[Abdelaziz and Georgy 2019]。

12  筆者が、エチオピア首相との会合に出席していたFFCのメンバーに対して行った電話インタビューによる(2019年10月21日)。

13  スーダンは歴史的に、ナイル川の水資源の利用に関してはエジプトと歩調を合わせてきた。すなわち、両国の間で締結された1959年の「ナイル川協定」に基づき、両国は、上流国の水資源開発を容認しない立場をとってきた。しかし2011年以降、スーダン政府は、エチオピアの大規模ダム建設を容認し、その建設によってスーダン領土内で農地が拡大し、エチオピアから安価な電力を購入できるという利点を強調して、スーダンの国内世論の説得にあたった。さらに、国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状を発行されたバシール元大統領は、その逮捕状の取り下げを求めて、AU加盟国に対して大きな影響力を持つエチオピアにロビー活動をしてもらうことと引き換えに、ダム建設を容認したのではないかという見方が、スーダン専門家のあいだでなされている。

14  TMCとの交渉にあたったFFCのメンバーによれば、6月30日の直前に行われた直接交渉の会議の帰り際にTMCのメンバーから「6月30日のデモが失敗すれば、TMCは独自に政府発足に踏み切る」と威嚇されたという(筆者の電話インタビューによる。2019年10月21日)。

参考文献
 
© 2020 日本貿易振興機構アジア経済研究所
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