2025 年 63 巻 p. 72
本書は2007年に出版されたSaidiya Hartman, Lose Your Motherの翻訳である。奴隷の子孫である著者が、自分のルーツを見つけるためにガーナで大西洋奴隷貿易の痕跡を辿った紀行文学である。ブラックスタディーズを代表する研究者であるハートマンは、博士論文である『服従の場面』で米国における奴隷制の語りを根底から覆した。つづく本書も、学術を含む様々な分野において傑出した先駆性や創造性を顕彰するマッカーサー賞を2019年に受賞している。本書では、奴隷貿易の重要な拠点であったアクラとエルミナ、ガーナ最大の奴隷市場があった北部サラガへの旅と、米国での家族との記憶が語られる。
著者は本書を通して、語られない奴隷制の歴史を書き起こすことを試みる。奴隷制の歴史において、奴隷の姿は存在しない。奴隷は、中間航路のなかで出自や過去を剥ぎ取られて帰還する場所を忘れ、母を失った「よそ者」となるからである(pp. 212-215)。著者は「死者を取り戻すため」に、旅路のなかで目にする場所や記録からは語れないことにまで想像を広げていく。第7章「死者の書」では、「あるニグロ少女殺害の疑い」という数行の裁判記録が残る少女が生きた痕跡を描く。このような、歴史と文学の境界を曖昧にする「アーカイヴの限界に叛いて書く方法」こそが、母を失った人々の歴史を書く方法であるという(p. 335)。
また、著者は、奴隷制が終焉しても「奴隷制の余生」は続いていると述べる。母を失った奴隷の子孫たちも、自身の出自と故郷を喪失しているからである。アフリカ系アメリカ人にとって、「奴隷制の経験がアイデンティティの形成の前提条件であり、収奪こそがわたしたちの歴史」である(p. 102)。そして、著者の故郷である米国は、「自分を愛さない国」であり、「自分が故郷と呼ぶ場所を憎むことに」疲れてしまった場所である(p. 270)。それゆえに、多くのアフリカ系アメリカ人が自身のルーツと「よそ者」であるような感覚からの逃避、人種差別の穏やかな世界を夢見て「故郷」を訪れる。しかし、著者がガーナで痛感したのは、奴隷制によって大西洋で引き裂かれた人々の間では奴隷制の記憶もアイデンティティも共有できないこと、そして「故郷」は見つけられないという現実であった。
本書は奴隷制の歴史が現代にも深く影響していることを描いている。ブラック・ライヴズ・マター運動が象徴するように「奴隷制の余生」が顕在化している今こそ、広く読まれてほしい1冊である。さらには、世界各地で紛争や人道危機によって多くの人々が故郷を追われ、出自の喪失に直面しているなか、本書は、彼ら/彼女ら、そしてその子孫たちにまでも及ぶ長期的な影響も考えさせてくれるだろう。
松原 優華(まつばら・ゆうか/アジア経済研究所)