抄録
本論は旧英国領ケニア,ウガンダ,タンザニアにおける近代建築について,建築の気候への適応という観点から,導入初期前後の建築的背景,及びパイオニア達の活動を通して西洋からもたらされた近代建築が熱帯気候に適応していった経過を概観するものである。本格的な近代建築が東アフリカにもたらされたのは,エルンスト・マイがドイツからソ運を経由して1934年タンガニイカ(現在のタンザニア)へ着いてからと言えよう。しかし,東アフリカ全体に普及していったのは第二次世界大戦以後であり,英国近代建築のリーダーの一人,エイミヤス・コネルが東アフリカに渡ったのも戦後になってからである。彼らは共に西洋近代建築の代表的建築家達であり,西洋での初期作品では単純で純粋な形態を追求していた。彼らの熱帯アフリカでの作品は近代建築の理念が踏襲されているが,熱帯への導入において様々な設計上の対応がなされた。近代建築が熱帯に適応するに至った過程の中にはそれらを支えたいくつかの要素があげられる。先づ建設活動に必要な労働者及び建築材料であるが,これは1901年東海岸からヴィクトリア湖を結ぶ鉄道の開通に際して大量のインド人技術者,労働者が流入して来てその建設を支え,引き続き留まっていた事,鉄道による資材の運搬が港から内陸高地まで可能になった事も見逃せない。ケニアの首都ナイロビ,及び東アフリカのいくつかの主要都市は高地にあり,太陽の光の強さ以外は住環境として良好であり,鉄道の開通後ナイロビが首都となり,建築文化の点においても東アフリカの中心的存在となる。当時白人のもたらした植民地建築の中で最も居住性の点で勝れており,設計の参考とされていたのはバンガロー式住宅であった。もともと英国の軍隊がインドからもたらした形式といわれるが,深い庇と高床のベランダが周囲を囲み,通風の良い部屋配置をとっているこのバンガロー住宅は高温多湿熱帯住宅の理想的形式と言われており,これらの原理は熱帯で活動した多くの近代建築家達にとっても重要な参考となっていた。こうした中で快適環境を得る為の科学的・合理的アプローチに関しては,英国建築研究所に戦後設立された熱帯建築部門の果たした役割は見逃せない。すなわち世界各国の熱帯建築研究に関する成果の情報収集と普及を機関誌及び建築家への直接的助言において展開して来たのであり,ここに挙げたパイオニア達とも深く関わっていた。フランクフルト集合住宅で知られるエルンスト・マイはナチスの台頭によりソ連に移るが,間もなく1934年東アフリカに渡り1952年まで滞在する。この間多くの設計を行ない,公共建築・都市計画を主体としていたけれども元CIAMの副リーダーであり,科学を積極的に設計に採り入れていた彼の設計方法は熱帯においてもその気候条件への取り組みから,科学的・合理的アプローチが窺える。例えばキスムにあるアガ・カーン病院の屋根に見られる換気及び断熱を目的とする二重屋根の構造,又同地のアガ・カーン学校におけるスクリーンブロックやフィンによる日照調整等は近代建築の美学に基く表現の一つであった。彼はフランクフルト時代から太陽位置図を用いており,キスムの一連の設計によく窺える。MARSグループのエイミヤス・コネルは1930年代の英国における代表的近代建築家の一人であり,そのキューピックな表現にはコルビュジェが影響していたといわれる。彼は1947年タンザニアのタンガに村の中心施設を設計するため東アフリカに渡り,以後1970年代後半まで留まるが,東アフリカ建築界のリーダーの一人でもあった。彼のアフリカでの作品は英国での作風を引き継ぎながら次第に造形表現を豊かにして行くのであるが,そうした中にも気候との関わりからデザイン言語としての日照調整装置を巧みに表現している。以上の様にパイオニア達は近代建築の主要な要素である純粋形態の追求という美学を基本に,科学的・合理的アプローチによるマイナーなデザイン要素の改変によって気候への適応をなしていったといえよう。