日本中東学会年報
Online ISSN : 2433-1872
Print ISSN : 0913-7858
アラブ・トルコ両民族主義運動間の軍事協力
奈良本 英佑
著者情報
ジャーナル フリー

1986 年 1 巻 p. 217-252

詳細
抄録
1920年にはじまるイラクの反乱とトルコの民族解放戦争は,英仏による中東地域分割の試みに対する,アラブ・トルコ両民族主義者の武装抵抗として知られている.これらの先駆けとなったのが,1919年末からのユーフラテス上流の英占領軍に対するアラブの蜂起,1920年初頭のキリキアにおける仏占領軍へのトルコ民族主義者の攻勢であった.本稿の目的は,この2つの比較的小規模な蜂起と戦争の展開を跡づけ,この期間とその前後における両民族主義者,彼等の代表格たるファイサルとケマルのあいだのやりとりに関する史料を分析することである.両民族主義者の間で,1919-1920年にかけて部分的な軍事協力が行なわれたことはすでに知られている.しかし,この協力関係自体は,これまで,研究者の注目を引くことが少なかった.この関係が,単なる一時的,便宜的なものと考えられたからであろう.だが,筆者は,この協力関係が場当たり的なものではなく本格的な軍事・政治同盟に発展する可能性をはらんでいたのではないかと考えた.このような立場から,前記の2つの小反乱が,両民族主義者の事前の計画にもとずいて決行されたという仮説を立てた.ここで検討したのは主に英文の史料である.現段階ではこの仮説を証明することはできなかった.しかし,2つの小反乱が高度の戦略的判断によって同時並行的に行われた可能性はきわめて高いことがうかがわれた.当時のアラブ民族主義者の主敵はフランス,トルコ民族主義者の主敵はイギリスだったにもかかわらず,アラブは英軍,トルコは仏軍を攻撃したことに注目すべきである.英軍にとっての北イラク,仏軍にとってのキリキアは,中東地域における両大国のそれぞれ最も弱い環であった.アラブ・トルコ両民族主義者は,綿密な計画に基づき,当面の主敵を交換しあって,これら敵側の最も弱い環を攻撃し,両大国に最大の打撃を与えようとしたと考えられるのである.
著者関連情報
© 1986 日本中東学会
前の記事 次の記事
feedback
Top