2001 年 16 巻 p. 49-85
本稿は通常の論文の形式からみると風変わりな対話形式の論文である。共同執筆者のアフマド・アル・ハーシミーと堀内正樹は1985年以来の交友関係にあり、15年の間にときを変え、ところを変えて、異なった状況下で様々な話題を話し合ってきた。そのなかで両者がともに重要であると考えるに至ったテーマのひとつが「知識(人)のあり方」であり、本稿の狙いもそこに絞った。そこでなぜ「知識」が問題になるのか、また論文の形式としてなぜ対話形式を選択したのか、その経緯を述べておきたい。ハーシミーは本稿の記述の舞台となるモロッコ南西部「スース地方」の山間の村で生まれ育ち、地元の著名なイスラム学者を父に持っている。幼児教育から中等教育までを伝統的なイスラム学の環境のなかで身につけ、その後首都ラバトのムハンマド5世大学で近代西欧科学の一つである言語学を修めた。現在は故郷スース地方の中心都市アガディールにある新制大学で教鞭を執っている。彼は伝統的イスラム学は自身の出発点であると同時に回帰点でもあると明言している。西欧科学を経験し、それを目下の職業としていることから、今後のイスラム学のあるべき姿を彼独自の立場から模索し、かつ地元のイスラム学復興のための実践活動にも携わっている。彼がイスラム学再生の鍵と考えているのは学問知識の内容そのものというよりは、伝統的に知識は知識人の専有物ではなく、常に地元住民と一体化したものであったことと、それが「対話」によって実現されていたという2点である(詳しくは本文2, 3章参照)。彼にとって知識のあり方は単なる研究テーマではなく、自身の生活に関わる重要事項と認識されている。一方、堀内は社会人類学という西欧近代科学の一つから出発し、フィールドワーク等の経験を経ることによって、住民(つまり研究対象)から学問知識が乖離すること、および従来型の一方的な文化記述の方法が有する独善性と閉塞性に危機感をもつに至り、新たな知識のあり方を模索してきた。もちろんこうした危機感は堀内のみのものではなく、人類学の分野ではオリエンタリズム批判とも相俟って、同じような動機による実験民族誌と呼ばれる試みが、中東を対象としただけでもすでにいくつか登場していることは周知の通りである。それらの多くは、異なる複数の声を如何にしてテクスト化するかという点に心血を注ぎ、対話形式の民族誌がそうした努力のなかから登場した。対象からの乖離を回避することとそれが対話を通じて可能になるという2点において、異なる知的伝統に属するイスラム学と人類学が奇しくも邂逅点を見出したように思う。知識のあり方を問い、それを対話形式で表現するという本稿の試みは、ハーシミーにとってはイスラム学の実践の延長線上にあり、堀内にとっては民族誌的実践の一つの帰結であった。この点で両者の意図が一致したのである。しかし、対話を近代西欧的な記録機能のみを担わされた文字テクストに置き換える作業は、原理的に乗り越えがたい矛盾を孕んでいる。対話はそのときどきの個別の状況下で具体的な音声や身体運動などによって形成されるプロセスそのものであるのに対して、記録装置としての文字テクストはそうした個別性や一回性を払拭して、プロセスつまり動きを一種の静止画として定着させてしまう傾向を強く持つからである。しかもテクスト化とは言い換えれば編集作業であり、そこには当然のこととして編集の権威性、あるいは記述の権威性が付きまとうことになる。従来の対話形式の民族誌の多くが、その野心的な意図とは裏腹に結局は人類学者のモノローグになってしまったジレンマもここに起因している。だがわれわれ二人は対話テクストを、そうした難問を抱える「会話の再現」や「対談の記録」とは別のものと考えた。文章の表現や全体の構成、トピックの配列方法などを足かけ3年にわたって共同で繰り返し推敲することを通じて、相互のパラダイムの違いが鮮明に浮き上がったり、更なる意見交換の必要性を感ずることができたからである。そうした反復する知的作業の産物は十分に文字テクストと親和性を有するものであると判断した。また、たまたま二人とも文字を書く職業に就いていることから、「編集の権威」を掛け値なしに分有できたことも幸いした。そして両者間のコミュニケーション手段として使われたアラビア語で本稿を書くことは自然であったし、テーマとしたイスラムの知識にもっともふさわしいばかりか、翻訳に付随する別種の権威性から免れることもできたと思う。こうしたいくつかの意図をもった試みとして本稿をお読みいただければ幸いである。なお本文中の〓というのは「ベルベル語」のことであり、〓はスース地方で話されているベルベル語の方言である。