日本中東学会年報
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アッバース朝の詩における行為遂行的詩論 :アブー・フィラース・アルハムダーニーによるラーイイヤArāka ‘aṣiyya al-dam‘iの再読解
ステケヴィチ スザンヌ・ピンクニー
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2013 年 29 巻 2 号 p. 107-144

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抄録

何世紀にもわたり、Arāka ‘aṣiyya al-dam‘i〔あなたの涙がこぼれまいとすることを、私は知っている〕で始まるラーイイヤ(ラーによる押韻詩)は、戦士であり王子であったアブー・フィラース・アルハムダーニー(320/932-357/968)のもっとも名高い詩である。アレッポのハムダーン朝統治者であるサイフ・アッダウラの従兄弟であるアブー・フィラースは、サイフ・アッダウラに、直接または間接的に自らの釈放を保証する身代金を払うよう嘆願する詩を贈った。にもかかわらず、351/962年にビザンツ軍に捕らえられて以降、355/966年の一般捕虜交換までの4年間、アブー・フィラースは捕虜として留置されてしまう。彼はアッルーミイヤート(ビザンチンの詩)と呼ばれる複数の詩によって名声を得ており、ラーイイヤもそのひとつである。本研究ではこの詩の読解として、まずラーイイヤの説明に有用な解釈を示す。次に、さらに進んだ解釈のための再読解を行う。この再読解は、性愛的な導入部(ナシーブ)と自慢(ファフル)に認められる感情的な率直さと誠実さに依拠したロマン主義的な評価によるものではない。間接性と多義性に特徴づけられ、捕虜の身代金と釈放の保証を意図した、修辞的技巧によるスピーチ・アクトとして解釈する行為遂行的な面に依拠した再読解である。古典アラブ詩の分野では、この20年間、文学批評研究は傑出した詩の様式(genre)であるカシーダ(ode)の儀礼的、儀式的、行為遂行的(performative)な側面に着目してきた。これまでこれら遂行的研究のほとんどは、カシーダの主要な下位様式(sub-genre)である宮廷称賛詩(カシーダト・アルマドフ)と、比較的少数のヒジャーゥ(風刺あるいはののしり)に焦点をあててきた。本研究はむしろ下位様式であるファフル(個人のあるいは部族の自慢)の作品を検討し、行為遂行的もしくはスピーチ・アクト理論の見地から考察するものである。しかし、本研究はカシーダト・アルファフルが単に個人的、部族的栄光の詩的称賛ではなく、その姉妹ジャンルであるマドフとヒジャーゥのように、複合的な詩的儀式あるいはスピーチ・アクトであるということを論証するものである。この詩的儀式あるいはスピーチ・アクトは、地位、忠誠、政治的正当性を主張するとともに、義務的な道徳力を有し、詩人とその受け手の両方における道徳的で政治的な地位の変化をもたらすものである。先に触れたとおり、本研究ではふたつの読解を行う。第一の読解では、アブー・フィラースによる古典アラブ詩(カシーダ)における慣行のみごとな用法が示される。この用法は、ナシーブの性愛的な抒情とファフルの勇壮なヒロイズムが均衡した二部構成である。ナシーブにおける絶妙な言い回しと性愛的な苦悩を通して、詩人はアラブ伝統のなかでも最も知られた恋愛詩のひとつを作り上げた。第二の行為遂行的読解は、当時の政治・歴史的状況に基づいた解釈である。含意されたアレゴリーによって、ナシーブの伝統的要素である性愛的献身と裏切り、苦難、不確かさ、中傷者の悪意が、捕虜である詩人と、彼の身代金の支払いを避けようとする君主との間に横たわる緊張した政治的・道徳的な絆を暗示する。ナシーブの‘スピーチ・アクト’力を通して、アブー・フィラースは忠節であり続けると自らを弁護し、同時にサイフ・アッダウラが約束を遵守せず、戦士・君主・臣下関係における責任を果たしていないと非難している。このナシーブの読解によれば、ファフルの「自慢」は利己的な大言壮語として解されるべきではない。むしろ捕えられた詩人が承認されたいがための窮余の嘆願であり、言葉には出さなくとも、戦士・貴族の倫理的制度のなかで、この承認がもたらす身代金の支払いを導くものとして読まれるべきである。したがって、詩人によるファフルの選択は、自らの釈放を希求する何らかの政治的・詩的策略であったと言える。つまり、詩人は、君主、親類、後援者に対するマディーフ(称賛)として訴えるのではなく、承認、そして身代金支払いの要求(あるいは哀願)を、より広範囲に彼のハムダーン朝親族に対して訴えることを選んだのである。本研究はアブー・フィラースのカシーダト・アルファフルが、階級の交渉、忠誠、道徳的状態の変化を伴う複合的なスピーチ・アクトまたは言葉による儀式であると結論づける。カシーダト・アルマドフにおいて、後援者への称賛は、それが成立し、確実なものであることを証明するために、後援者のほうび(ジャーイザ)あるいは返礼となる進物を必要とする。同様に、このカシーダト・アルファフルでは、自慢において、アブー・フィラースによる親類への称賛の道徳的美点が成立し、確証されるのである。アブー・フィラースはこの詩を通じて忠義を‘遂行’したといえる。そして、それは彼の親族、ハムダーン家がこの詩的挑戦を受け入れるか否か、つまりその忠誠心の‘契約’の目的を‘遂行’するか否かに託されている。言外に込めた詩人の要求に対するハムダーン家の応諾は、詩人の政治的・道徳的な状況を拒まれた捕虜から認められた親族の一員へと変化させるものであろう。

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